忘れないと決めていること
9年前の3月11日や「死」について振り返るnoteなので、フラッシュバックの危険性があります。
読むのを控えてください。
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その日、大学の研究室で大きな揺れを感じた。
「大丈夫だよ」と話してたけど、徐々にそんな気がしなくなって、「とにかく出よう」って周りの学生に声をかけたのを覚えてる。
立ちすくむ同級生の背中を押し、教授の手を引きながら校舎の外に出た。
山の上にある大学だったから、揺れに耐えきれず座った子もいたし、怖くて泣いてる子もいたし、親や彼氏に連絡を取ろうとする子がたくさんいた。
(これは只事じゃない)
と思って、落ち着いた頃にテレビのある研究室に駆け込んだ。
映像を目にした瞬間、同じ部屋に東北出身の同級生がいないか確認した。それくらい理解が追いつかない映像だった。
その日のテレビ画面には、右下に日本地図が常に出ていて、伊豆諸島も該当していた。
同級生は家族と全く連絡が取れない状態だった。
・歩いて帰宅するか
・学校に泊まるか
私は歩いて帰れない距離でもなかったけど、その日は学校に泊まった。
東北の大学に大切な人が進学している友人と、その伊豆諸島の友人と、3人で夜を過ごした。
ひたすらにtwitterを駆使し、旧友に連絡をとった。友人自体を失うことはなかった。
でも、家業や稼業、その家族は同じようにはいかなかった。
あの日1日がとにかく長くて、やっていたことも起きていたことも昨日のように鮮明に、今でも覚えてる。
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当時私は、教室に通わないことを選んでいる子に、保健室で勉強を教えるバイトをしていた。
正直、
勉強<雑談
だったけれど、だからこそその子のいろんな顔が見れていて、とても楽しかった。
自粛、自宅待機、、
そんな言葉が飛び交う中、1回だけ
このバイトがなぜか「自粛」された。
1回だけ会わなかったその子は、その2週間の間で大きく変わっていた。
その変貌ぶりが、その後の私の進路に大きく影響する。
「ねえ先生?なんで死ぬのが私じゃだめだったのかな?」
「死んだらあんなに泣いてくれる人は死んじゃだめだよ。代わりに死んであげたかった。」
「とっても可哀想。私の命をあげられないのかな?」
家族はいる。でもいない。
家でいないものとされてるその子は、「自粛」ムードの社会の中で、暗い部屋の中一人、ずっと東北のその時の様子を見ていたという。
youtubeでも、ニコ動でも、そして2ちゃんでも繰り返し、当時の映像を見て、(代わってあげたい)と願ってたと。
「先生!私なんか放っておいて、東北の支援に行ってあげて?本当に勉強したがってる人がきっと困ってるから!!」
「届けてほしい手紙を今から書くってどう?」
いつもよりずっとずっと饒舌で、止まったらダメになることが自分でもわかってるように動き回るその子と過ごすために、持て余す時間がありながら、私は東京に残ることに決めた。
卒業シーズンになるまで、毎週その場に行くことを約束した。
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この子の叫びは、この子だけの叫びじゃない。
当時そう思ったけど、この時期になるといろんな人、いろんな子が同じように話す。
「生きてる分、頑張って」
そんな言葉をかけられて、苦しんでた子がいた。
言ってる側の気持ちもわかるから、言われても飲み込む。でも、心で泣いてる。
「生きてることが辛いことだと思ったこと、私もあるよ。」
私はそうやって人に言う。
辛いことだから、その中で楽しいことを見つけようと思ってるし、
辛いことだから、一人で抱えられないし。
そういう基準でいるから、「生きる」にとらわれる日々が続かないように工夫してる。
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3.11の日が近づくたびに、当時のその子とのやり取りを思い出す。
「代わりに私が死んだら、誰かが一人、泣かなくて済むようになったりしないよね?」
家の外に出てきて、保健室に来てくれたから、この言葉が聞けた。
なんて応えたか忘れたけど、
「先生は私が死んだら泣く?」
って笑いながら聞かれたのは覚えてる。
笑いながら聞かれる距離にいること。
とても難しくて、簡単にその距離にいけないんだけど、そんなところにいてくれる人がいるだけで、少し笑えるのなら、その難しいことと向き合ってみようと思う。
これからも忘れない。
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