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離婚後子育て考

離婚後子育て、というのは何か。

いわゆる「子育て」との違いは何なのか。

離婚というライフイベントがあっても、それは、夫婦のこと、大人の都合。

親子は親子だ。

だが、婚姻中は両親と子が同居して暮らす(だって、婚姻中には同居義務があるもの)中で、役割を自ずと分担することで足りることが、離婚=婚姻解消=同居義務解消=父母別居という事態に至るがゆえに、離婚後特有の特徴が見いだせる。

これをいわば「共同養育」という形で、養育時間を公平に分担すれば、時期の違いはあれど、両親ともに、それぞれ、親子で過ごす時間、親子が離れる時間を交互に体験することになる。それは、父であっても母であっても、個性に見合ったケアや責任を尽くすことになるだろう。

そのスタイルが、何も完全に5分5分、厳密な一週間交代にこだわるわけでもなく、「共同養育」は幅広く柔軟なはずである。子の年齢や、それぞれの住まいの距離などによって配慮を要する。固定的には考えにくいのだ。

場合によっては、平日の大半はどちらかの親と過ごし、隔週末や、長期休暇期間に限って連泊するという方法も選択しうる、それが、離婚後共同養育がある社会といえる。日本以外の先進諸国で採られているという。

日本は、離婚後単独親権制しか選択できない。離婚時に、両親のうちいずれか一方を親権者として指定しなければいけない制度である。必ず一方だけである。指定なので、どちらが優れているかというのを決めるものでもない。子供が生きながらえる限りどちらでもいいというスタンスがかえって、過激な親権争いを助長しかねないとの指摘もある。現に、先に子を監護して抱え込んだ方が親権者指定に際して有利な立場になりうるという運用を前提とした行動規範がまかり通っているともいえる。

連れ去られる前に連れ去る。躊躇した時点で負けになる。化かし合い、離婚の話題を提供したとたんに、別居を強いられる。そういう目に遭うのは、男女を問わない。わが子に会えなくなる母親もいる。いや、母親がわが子に会えなくなっているから問題に気付くようではとても遅い。わが子に会えない父親が、心身を病み、命を閉ざすほどに思い悩む現象は、多く繰り返されてきていた。親がわが子に会えない。すなわち、親に会えない子どもの問題を子どもを主語にして考え対応していくことが、どうも遅れがちではないか。

片親に会えなくなり、離婚後は片親だけが監護を抱え込み、これを「ひとり親」と呼ぶ。死別と異なり、両親健在であったとしても、「ひとり親家庭」と括る。子と同居して暮らす親を同居親と呼び、離れて暮らす親を別居親と呼ぶ。

子育てなのに、同居親か別居親かで親子の時間に格差が発生し、中身も異質になってくる。

別居親の子育ては、養育費を送金し、面会交流という限られた時間・機会の中で制約のある親子の時間を過ごす。場合によっては、とても「養育」とは呼びようがない、イベント的な非日常的な時間しか「許されない」ことがある。

同居親の子育ては、日常的に親子が過ごす点では、一般家庭の子育てと重なる部分もあるだろう。両親のいる家庭において自ずと分担することを日常的に抱え込むこと自体苦労であることは想像しやすいが、もっと深刻に重いのは、養育費請求権の適切な行使と面会交流義務の履行という点だろう。

同居親は、養育費請求権の権利者であり、養育費を請求できる。しかし、権利というのは、行使することが求められるのであり、それはとてもとても重責なのである。関わりたくないという想いを覚える相手に、要求していくことの過酷さは、普段、請求権の行使を生業とする者たちにとっての容易さとは、全く異質である。「養育費は、子供のためのものだから」という言質が、その権利者を追い詰める。「子供のためのもの」なのだから、行使して当たり前であり、それを怠ることはあってはならない、という正義が非難に聞こえる。「養育費を払わない方こそ問題である」とギャラリーは無責任に吠えるけども、その牙は、請求権を行使する当事者に向けられていくことの恐怖は、おのずと、支援者との距離を生み、未払い問題は温存していく。

もっと重いのは、面会交流履行義務である。「親子なのだから、会っていくことは当然であり、両親から愛情を注がれる環境を用意する方が、子は健やかに育っていく」と語られようものなら、それに応じる気持ちには程遠いところにいる同居親をひたすら追い詰めていく。親権・監護権者としての適格性を疑われ、債務名義となった面会交流義務の不履行があれば、損害賠償や間接強制で、決して少額にとどまらない金額の給付を要求されていく。裁判所からの履行勧告、新たな調停の呼び出し、支援機関者からの説得。。。どれも正しくて、不履行にあることは誤りだろうけど、それに抗うことにも疲弊していく。別居する親子関係が良好であれば、潤沢な交流を用意できないのであれば、誰が悪者なのだろうかと自責の念も芽生えるかもしれない。自己肯定感がどんどんと蝕まれていく。わが子が別居親に会いたくないと言ってくれる場合には、どこか正当化する拠り所を得たようで、ほっと安心する面もあるかもしれないけど、そのままでよいのかはわからない。間違っていないと自分に言い聞かせるほどに、過去から逃れられなくなる。親を否定する子に育ったということは同居親自身にも反抗することもある。会話が成り立たない。ゴールの見えない闇に深入りしていく。

離婚後子育ては、本当に本当に重い。

共同親権か単独親権かというのは、親権者が二人か一人のかという単純なものではない。単独親権制においても共同養育の実践を排斥しないが、共同養育の場合は、親として互換可能な対等な関係にあるのである。もちろん、親はそれぞれ個性があるし、その個性を発揮してこそ、子にとって最良の養育環境なわけだが、どちらも親としての価値が尊重されるという意味で、対等である。

勉強が得意な親と運動が得意な親。

社交的な親と社会性のある親。

違うから惹かれ合って一度は夫婦になり、そのふたりから生まれた子供たちにとって、どっちかだけがあればいいとか、どっちかだけが優れているかを選ぶこと自体が不可能である。どっちも大事なのである。

稼ぐ親とゆっくり愛情を注ぐ親。これも優劣はつけられない。

両親のいずれかを失うことがあること自体リスクである。(もちろん、リスクを背負って生きなければならない状況にある子を否定しない。どんなリスクがあっても、その子らしい人生を生き抜くことはできるのだと応援したい。)肝要なのは、あえてリスクにさらすようなことは避けることが望ましいということだ。

共同養育を実践することを前提にすると、やはり、共同親権を選択できることが無難である。どちらか一つなんて決められないものを無理して決めることを「やめる」。たちまち対立を終えることだって、やりやすくなるだろう。

人生100年とはいえ、対立する時間は不毛でしかない。

ひとり親概念が、親を二種類に分け、格差を生む。

わが子に会えない(完全断絶に限らず制限的にしか会えていない場合を含む)別居親は、その状況を嘆くけども、中には、重い養育責任をうまく免れていることを奇貨として、新たなる恋愛や自己実現など人生を謳歌するチャンスだってあふれている。

さも親権を獲得したかのように語られる同居親だが、その多くは貧困にあることは繰り返し語られることである。

格差を容認し放置していることに他ならない。

離婚後子育てを応援する先に目指すもの。

同居親・別居親という概念をぶち壊す。親は親。

わが子をめいいっぱい愛していい。遠慮はいらない。

わが子を愛することを誰も否定できるまい。

愛のカタチは自由だ。

夫婦別姓も共同親権も、今は、まだ日本だけ、制度がない。

制度がないからこそ、一手間いるとはいえ、知恵と工夫で、別姓家族で共同養育を実践することだってできる。

そんな自由に生きるお手伝いが私の仕事だ。

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