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解放されるということ【母の思い出4】

*これは誰に読んでもらわなくてもいいのです。私の心の整理のために書いています

先日亡くなった母の思い出です。

母は自由になれるのに、「ならない人」でした。


最後まで父と婚家に縛られていました。

結婚した父のことをそれほど好きだったわけではないと思います。

同業者(教師)として尊敬はしていたと思いますが。

その人の良い面しか見えない職場結婚の落とし穴というヤツです。

(お父さんゴメン!悪いけど事実だよ〜)


まして嫁ぎ先の家は嫌いだったかと・・・

姑、小姑にはさんざんイヤな思いをさせられたようです。

話を聞いて私泣いたことありますもの。


教師という安定した職業と収入もありました。

家を出ようと思えば出られたのに一生婚家で頑張りました。

ツラい思いも悔しいこともあっただろうに。


「昭和一ケタの女は家を出るなんて考えないのよ」と、この年代特有のことを言っていましたが、なにか意地のようなものを感じます。

50代の頃、今の私と同じ頃は夫の親二人、つまり私のジイちゃんとバアちゃんを合わせて13年間ひとりで介護した人です。

意地とド根性がなければできないと思います。


それでも二人を見送って、家がようやく「自分の居場所」になってからは少し解放されたようでした。

それでも父という難物はいたんですけれどね。


80歳過ぎてからは身体もあちこち痛くなり、耳鳴りがどんどんひどくなり、体調的にはツラい毎日だったようです。

以前は私が困ったことがあるとなんでも聞いて相談にのってくれたり解決してくれましたが、85歳を過ぎてからは逆に「サトコ、これはどうしたらいい?」と私に聞いてくるようになりました。

その頃から「ああ弱ってきたんだな・・・」という実感がありました。

ガンでしたので最期の方は痛みも苦しさも相当だったと思うけれど緩和ケアのおかげでだいぶ楽になり、でもその分意識は朦朧としていきました。

5日間だけ緩和ケア病棟に入院しましたが、入院してからはほとんど意識がありませんでした。

それでも24時間病室で一緒にいられたことは良かったです。

最期を看取ることもできました。


亡くなってすべてから解放されたとき、母はようやく軽い身体になって自由になれたのだと思います。

もう会えなくて寂しくてたまらないのですが、母は自由になった喜びの方が大きいのかもしれません。

解放された母に「よかったね」と声をかけてあげました。


来世でまた会いたいな・・・

できたらまた母娘がいいな・・・


大腸ガンの手術から三年して転移。
肺ガンがわかってから1年半でした。

抗癌剤が身体に合わず本人の希望で治療はしませんでした。

89歳になる二ヶ月前まで頑張りました。


もう会えないのが本当に寂しくて今でも涙が出るのですが、ツラい身体と痛み、ひどい耳鳴りから解放されてようやく軽々となった母を想像すると良かったのだと思います。

日赤病院緩和ケア科の先生、看護師、スタッフのみなさま、最期まで寄り添っていただきありがとうございました。

母が病院から家に戻る時、4年半前に大腸ガンを手術してくださった先生も見送ってくださいました。

「明るくて前向きなお母さんで、毎回診察で会えるのを楽しみにしていたんです」と言ってくださいました。

支えてくださったみなさまに感謝いたします。


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