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[2022/12/25更新・追記]私のいる場所について(「門眞妙 まあたらしい庭」Gallery TURNAROUND、2022年)

*文中の内容に筆者の誤認があります。文末の註釈もご一読ください。

「門眞妙 まあたらしい庭」(Gallery TURNAROUND)より《小鳥》(2022年)

Gallery TURNAROUNDで門眞妙さんの個展「まあたらしい庭」を見た。門眞さんの作品を見るのは、新宿眼科画廊での「故郷」展(2021年2月)以来のことで、その半年前に同じくタナラン(とGallery TURNAROUNDは略されている)で開催された宏美 門眞妙 二人展「swimming」展(2020年6月)では、私は門眞さんのドローイングを一点購入している。その作品を、最近、大学の個人研究室の壁にかけて、時折見つめている。フェンス越しの風景に少女が立っている絵で、つまり私と少女の間には金網が介在している。いや、その金網は、「私と少女の間」というよりも、「私の風景の間」にある金網であるかもしれない。その間に少女もいる。そのとき、絵の鑑賞者としての私は、絵の少女/風景から見つめられる/見つめ返される存在となって、私は、少女や風景との距離を推し量る。その近さ/遠さについて考える。私はどこにいるのだろう、と。
 
展覧会「まあたらしい庭」は、節目がちな少女のクローズアップの作品(《小鳥》2022年)を入口=導入としている。彼女が何を見ているのか、あるいは、何から目を逸らしているのかわからない。そのくらい、スクエアの画面のほとんどは顔貌しか描かれていない。ただ、そういう「わからなさ」とともにある絵だと言っていい。なにもかも明言しない。「まあたらしい庭」は、「わからなさ」から始まっている、というところが大事なのかもしれないと思わせる。

《えんえん》(2022年)部分

ただ、この「わからなさ」は、(展覧会の導線上そう言っていいと思われる)次いで展示されている防潮堤(註1)をモチーフとする作品(《えんえん》2022年)によって、いきなり、そうではないと言われる心地がする。《えんえん》は、242×410mmと決して大きなサイズではないが、画面の大部分を防潮堤が占め、上部に青空、下部に道路が描かれている。《小鳥》からその《えんえん》を続けて見ると、少女は、まったく視線を塞ぐようでもある防潮堤の大きさに、またはどうしたって見ようがないその先の光景に対して、目を伏せっていたのかもしれない。道路は、そこが私(たち)のいる/立つ場所と地続きであることを知らせていて、少女が立っているのは、かつ目を伏せているのは、その大きさや空の太陽の光に対してではなかったか、と思わせる。
 
書いていて、とたんにそういう気がしてくるから不思議で、《小鳥》の少女は、防潮堤の前に立ち、目を逸らしている。そして、さらに想像をたくましくすれば、いや、たくましくしなくても、私もまた、その少女と風景の前にいるのかもしれない。「いるのかもしれない」ではなく、「いる」。これは、フェンス越しのドローイングを見ている体験を前提とするところが多分にあるが、そう見たい、見なければならない、という作品であり構成に、門眞さんの個展「まあたらしい庭」はなっている。フェンスらしきものが描かれたドローイングが今回も展示されているが、その作品(《無題》2022年)における金網は画面の奥に遠のいて、少女と私との間を隔てない。

《セーブポイント》(2022年)

どこかの家の庭らしきところに植えられたチューリップや、海辺の動物の足あと、砂浜に置かれた玩具(註2)のようなもの。それらが描かれた作品とともに、ドローイング(これもまた、風景だけであったり、少女が含まれていたりもする)や、画面としては大きく少女の後ろ姿をとらえながら、その先の風景へと視線を投げかける作品。その「かほそさ」について、見ず/考えずにはいられない。この少女は何を見ているのだろうか。かろうじて見える、その風景の断片はなんだろう。あぁ、気づけばそれは、そこここにあるではないか。そう見る/考えるとき、少女が見ているのではなくて、私が見ている。その場に立っている。
 
門眞さんは、具体的に、この絵のモチーフのこれは何で、あれは何でと特別指し示さない。絵でも、タイトルでも、解説や、ステイトメントでも。ただ、それらが何か大切なものであるらしいということを、作品自体と、その展示の構成と組み合わせで示している。示しているというか、展示としては文言不要で言い切っているところがあって、そこがすごい。(一方、今回の展覧会では会場で「まあたらしい庭のためのテキスト」と題されたテキストが配布されていて、これは作品/展覧会の解釈を「いっそう」深める/広げるという点で、必読だと思います)。

左より、《明日、火を見にゆく》(2022年)、《無題》(2022年)、《しんとしている》(2022年)

言うまでもなく、私たちは誰も、日々異なる生活をしていて、仕事も環境も家族も何もかも、同じではありえない。あなたと私は違う人間であって、違う生(せい)を生きている。門眞さんの作品に私が注視するのは、それでも、私たちは何かを共有しているのではないかと絵自体が言っている、と同時に、孤独でもあると言っているということで、それは、絵だけの問題ではなく、私たちの生(せい)と大きく関わる。絵とは、そうやって、画面だけのイメージにかぎらず、それを見ている人間と否応なく関わってしまうものなのだということを、思い知らされる。これらの作品は、まず門眞さんの絵であり、それだけでなく、私の絵であり、あなたの絵でもある。
 
少女たち——門眞さんのその人物は「キャラクター」たちと言い換えられるのかもしれないが、中国の絵画における「臥遊」という言葉にあらわれている、鑑賞者が画中に身を置こうとすることと同様に、私は門眞さんの絵を見るとき、画面の中を「遊ぶ」わけではないけれども少なくともそこに身を置くことを試みている。それが、絵としてのイマジネーションを超えて、その世界が今の自分のいるところと地続きだと思わせられるからである。誰でもない、私というキャラクターの生(せい)の問題として。

2022年12月25日更新・追記
註1.《えんえん》(2022年)のモチーフとして私が書いている「防潮堤」について、作家の門眞妙さんご本人から、防潮堤ではなく、斜面の土留めであることを教えていただきました。「身近に存在する境界」のメタファーとして描いているものであり、そのような作品づくりをしてきたため、どのように見えても(防潮堤に見えても)問題ありませんとのことでしたが、私の断定的な書き方は作品の実際、作者の意図に対して適切ではありません。しかし、書いてからひと月以上が経っており、該当部分をただ修正すればよいとも思えず、ここに註釈という形で記載いたします。さらに言うならば、門眞さんがこれまで描いてこられた被災した土地の風景の記憶から、私がそのような誤認をしてしまったことは疑いえず、改めて、絵/風景を見ること、その難しさについて認識を新たにしたいと思います。門眞さん、ご指摘をありがとうございました。
註2.上記と同様、「玩具のようなもの」と私が書いた作品《セーブポイント》(2022年)も、モチーフとなっているのは玩具ではないとのこと。門眞さん曰く、「この絵を見た方が生活の中でいつかふと出会って、作者の私と同じように『これはなんだろう?』と思ったり、気づいたりしてほしい」とのことですので、私のこの註釈でも、具体名はあげないことにします。なお、今回の更新に合わせ、《セーブポイント》の画像も文中にアップしました。


「門眞妙 まあたらしい庭」 
会期:2022年11月8日(火)〜20(日)11:00-19:30、日曜-17:00
定休日:月曜日
会場:Gallery TURNAROUND
   〒980-0805 宮城県仙台市青葉区大手町6-22 久光ビル1階
@TURNAROUNDInfo
http://turn-around.jp/

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