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「絵のことは、絵に話しかければ」とあなたは言う(松岡亮 「誰かに愛されている空。 誰かを愛している空。」 SAI)

松岡亮さんの個展「誰かに愛されている空。 誰かを愛している空。」が、MYASHITA PARK(渋谷)3階のアートギャラリーSAIで開催されている。2021年11月の個展「暇で育つ。」以来、SAIでは2年ぶりとなるこの展覧会では、ミシンを用いた刺繍作品を中心としながら、ギャラリー空間の(ほぼ)始まりと終わりにはアクリル絵具を素材とする絵画作品が展示された。15点の刺繍と、56点の絵画、合わせて71点。後者のうち、1点はSAIのひと部屋の連続する二面にロール紙を貼り、まさしくその場で描かれた作品であり、55点は、その制作を終えた後のロール紙をさまざまなサイズに切って(それらも、同様にSAIで)描かれた作品である。

撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日

ここで、あぁ、と思うことは、つい、「刺繍作品」「絵画作品」と書き、また、作品の展示点数すらも記してしまったが、書いてみて、松岡さんの作品をそのような便宜的な分類に基づき整理することの不適切さを感じてしまう。キュレーターという職業柄、あるいは美術史という学問においても、作品の分類・整理は欠かせざる重要事項であるのだが、松岡さんの絵の前に立つとき、そういういつもの自分から距離をとってはどうかと促されている私がいることに気づかされる。誰から促されているのかというと、松岡さんからということではなく、松岡さんが描いた/制作した作品自体から促されている。

松岡さんの作品は、ある特定のテーマやコンセプトに基づき制作されるものではない。今回展示されている71点の作品は、2020年制作の作品が2点、2022年制作の作品が8点、それ以外の61点は2023年制作の作品であるが、会場で制作された56点を除き(点数だけ見れば非常にボリュームがあるが)、この展覧会のために制作されたというわけではなく、松岡さんが日々行っている絵を描くという営為の中で生まれた作品が、今回の機会に一堂に会した。ギャラリーに展示された作品以外にも、松岡さんの手元(というにはあまりに大きなものも含まれる)には多くの作品があり、そして日々生まれており、今回も、ギャラリーに持っていったものの空間の都合上展示することのできなかった作品があったとも聞き、すなわち、それらの作品は、何か(例えば、展覧会やアートフェア)のためにということではなく、松岡さんの毎日の生活の営みの中で自然とつくられている。生活の中で、「あなたの生活のコンセプトは? テーマは?」と殊更に聞かれる/聞くことがないのと同様、松岡さんにとってつくることは、生きることと切り離すことが「生理的な意味でできない」ものとして存在している。松岡さんにとってつくることは、テーマやコンセプト「以前」にある。

撮影:小金沢智 2023年12月3日

食べること、眠ること、家族や友人を愛することと同じ線上に、「絵を描く」ことがあり、だから松岡さんは、「絵を描くこと」を生活の上で優位に置かず、「絵を描くこと」によって自分を特別視せず、人との作品の比較もしない。もし、寝る間を惜しんで、生活を顧みず絵を描いている人がいるならば、「ちゃんと食べて、絵を描け」と松岡さんならば言うだろう。
今回の個展のステイトメントで、松岡さんはこう書いている。

何を見たのか? 何を知ったのか? 何を忘れたのか? 美しい旅だった。ゆっくりと動き出し。 少しずつ削ぎ落とされて。 自分自身に戻っていく。遊びの、遊びへ。 ただただ、描き。 

松岡亮 「誰かに愛されている空。 誰かを愛している空。」 SAI、2023年

仏教用語で「おのずからそうである」という意味で「自然」(じねん)という言葉があるが、松岡さんの作品から受けるのはそのような意味での「自然」である。「自ら然る」。絵とは、人の手によってつくられた人工的なものであるから、「おのずからそうである」ということは基本的にはないわけだけれども、できあがった松岡さんの絵は、それを強く感じるから不思議だ。作品の大小、素材・技法の違い、そういうものの如何を問わず、ここに絵が存在しているということ。「おのずからそうである」ものに対して、いったい、何を言うことができるだろう?

松岡さんの作品は、即興でつくられる。刺繍であればミシンによって、絵画であれば手によって(松岡さんは筆を用いない)、作品がどれだけ大きくても、小さくても、事前の下絵や構想はない。絵は、一本の線から、または点からはじまっていき、(松岡さんにとっての)然るべきタイミングで終わる。誰も、本人すらも、はじまり、過程、終わりを知らないまま、形態や色が次第に重なり、連なっていくようだ。最後の部屋に展示されていた大小55点のドローイングは、その豊穣な重なりと連なりの一端を示している。

撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日

SAIの入っているMIYASHITA PARKは、JRの線路にほぼ面しており、SAIには線路はもちろん渋谷の街の様相を見下ろすことのできる一室がある。おそらくそこは、展示によってはガラス面を閉じるなどのことができるのではないかと思うが、今回の展示では一部遮光されながらもほとんど開いたままとなっており、訪れた日中は陽の光が空間全体を満たすようにして作品に入り込みつつ、ガタンゴトンという電車の音もしばしば響いた。ふと目線を下げると、人工物の合間に植物が見える。線路脇ということであまり浸食すると危険であるということなのか、詳しい意図は不明だが、ある空間の中に植物を閉じ込めるようにして囲いができているのだが、しかし、その囲いから飛び出るようにして植物はその外側へと伸びてしまっている。電柱にも這っている。不思議なもので、それらの植物のありようと、松岡さんの絵の近さについて私は考える。まったく違うものではあるけれども、近いもののように見える。あの植物と、この絵と、何が違うのか? 本当に、違うのか? 植物も、絵も、食べることも、絵を描くことも、近い、もっと言えば、同じである、ということから始めることができるのではないか?

撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日

刺繍による作品は、ミシンでつくられた後、展示にあたっては木枠にセッティングされているのだが、一部、ふわふわと空気をはらんでいるというか、布が波打っているようなところがあって、それが呼吸のようで、またいい。絵が呼吸している。などと書くと、情緒的に過ぎるかもしれないが、松岡さんの絵は、情緒ということではなくて、絵の一点一点が、絵としてそこに存在しているという意味において、「呼吸」という言葉が、私にはとてもしっくりくる。それこそ、制作過程において松岡さんの身体/呼吸とともにつくられた絵が、その手を離れ、自ずと呼吸を始める。私には、松岡さんの絵は、水のようであり、光のようであり、風のようであり、ある場所で、ある場所を、たゆたい、ゆらめき、吹き抜ける。呼吸/リズムを伴いながら。

撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日

「絵のことは、絵に話しかければ」と松岡さんは言う。私が私として、あなたがあなたとして、絵と向き合う。作家に向き合うのではない。

撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日
撮影:小金沢智 2023年12月3日

松岡さんの作品は、今回のものもすべて、具体的なタイトルが付けられているものはない。《untitled》(無題)である。作品と見る人との関係というものは、実は、作家と離れたところでこそ、きわめて相互的なものなのだということを松岡さんは信じているように思う。そのとき、絵もまた、あなたを見つめているのかもしれない。光を受けて、呼吸しながら。


松岡亮 「誰かに愛されている空。 誰かを愛している空。」
会期:2023年12月2日(土)〜2023年12月24日(日)
休館日:無休
会場:SAI
   〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6-20-10 RAYARD MIYASHITA PARK South 3F
https://www.saiart.jp/

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