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湯気にごまかされて

12月30日・31日と、伊香保温泉に来ている。12月29日・30日は、栃木県那須塩原市の板室温泉・大黒屋。年末温泉ツアーだ。山形へ越してからというもの、温泉に行く頻度は増して、最低週に一度は行くようにしている。41歳になって、ますます、体がほぐれるあの時間を求めている。

日中というよりも朝に入るのが好きだから、山形の日帰り温泉が朝から営業していることに助けられているのだが、旅館は旅館で、夜通し営業していることのありがたさがある。今日も、目が覚めてしばらくした5時半ごろ、昨日の夕方にも入った少し白濁している熱めの温泉へと向かう。この旅館も夜通し営業して9時までは入ることができる。

よし、と思って洗い場へ腰をかけると、シャワーからお湯が出ない。カランからも。水も出なくて、ちょうど洗い場には誰もいなかったので、他も確認してみるものの、他も出ない。困ったなぁと思っていると、湯船に浸かっている男性から声をかけられた。出ないんだよねぇと。ささやかな温泉のコミュニケーション。困っちゃいましたね、と答えて、湯船からお湯をもらって何度か体を流し、浸かる。二人きりだ。

しばらくすると、どこから来たの、と聞かれる。生まれは前橋なのですが、今は山形なので、山形から来ました、と言う。こちらからも、どちらからですか、と聞くと、大分からだという。大分から群馬はずいぶん距離がある。えー、すごい、大分からですか、と言うと、しかも、どうやら車で来ているらしい。

「来ているらしい」と書いたのは、温泉は空気がこもっていて、思ったように互いの声を聞き取ることが難しいのだった。全国各地でガソリン代がずいぶん違う、とか、距離が、とか、息子が運転をしてくれて、ということを話してくださっているのだが、すべてを理解することが難しい。互いの年齢の違い、または方言がということではなくて、ただ、この湯船の空間というのが話をするのにはあまり向かないらしい。音が反響する。湯気が互いの間の膜のようだ。

けれども、互いにそういうことは言わず、少し湯船の中を動いて、少し距離を近づけてみる。私が近づくと、その方も少し近づいて、だんだんと話がしやすくなった。運転の話の流れで、昔はトラックに乗っていたということをポツポツ話をしてくださった。30年間乗っていて、65歳で定年になって、それから12年経つと。ということは、現在77歳。当時は一度トラックに乗ると、1週間は家に帰ることができず、子どもに会うこともなかなかかなわなかった。仙台にも行ったことがあると話をしてくれた。私が山形に住んでいると言ったからだろう。伝わっている。

そうしながらも子どもを育て、その子どもは大きくなり、いまやお孫さんも結婚されるという。23歳。若い。ニコニコしながら、いや、私も眼鏡を外しているし、湯気もあってはっきりしたお顔までは見れないのだが、やはり、ニコニコしていたと思う。30年間、必死に仕事に打ち込んで、いまは、こうして子どもやお嫁さんとともに温泉に行く。お正月はどちらで過ごされるんですかと聞いてみると、岐阜まで行くのだという。タフ。

思いがけず、温泉で、それまで知らなかった方の人生に触れる。こういうことが、楽しい、と私が思うようになったのは、私もまた歳をとったということがあるだろうし、または、父はこのような老後を迎えることができなかった、という幾許かのさみしさから生じるものであるかもしれない。私自身、結婚をしていないし、子どももいないから、いずれにせよ、この方のような老後を父が過ごすことはかなわなかった。たらればを言っても仕方がなく、人生はいろいろあるが、そのいろいろある人生に、人はそれぞれが何かを託している。その託しているものは上下がなく、だからこそ尊いものだということはわかっているが、人はどうしても自分以外の誰かの人生も見てしまうことの難しさが、今日のソーシャルメディアが隆盛する社会においてはいっそう進んでしまっている。

だが、どうせ難しいのならば、こうして直接話をしたほうがいい。見知らぬ他人同士でも、シャワーが出ないという、少し困った、でも大したことじゃない、些細なことをきっかけとして、生まれる湯船のなかでの会話がある。それは、対話と呼べるほど、はっきりしたものでもなかった。お互いがお互いの声を充分に聞こえているのか、理解しているのか、わからない。むしろそれらは常に断片的で、しかし、その断片から何かを見つけ出そうとする会話があったと思う。

断片しか聞こえないからこそ続く会話というのも、あるのかもしれない。私たちは、即座に、話している互いのすべてを理解することなどできない。言葉というものは、あまりにはっきりしてしまっているから、何かを言ったような気になってしまう、言われた方はわかったような気になってしまう、何かをわかったような気にならなければならないのではないか、というときがあるが、本当は、全然そんなことはない。言葉は、そんな簡単なものではないし、人のことがわかる、ということも、まったく簡単なことではない。少し聞こえない、少し見えない、少しわからないくらいのほうが、ちょうどいいのかもしれない。

あなたと私は。私たちは。そうして湯気にごまかされて。どうも、と挨拶をして、浴室から出る。

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