見出し画像

「美術大学で、絵を描くことをはじめ美術を学ぶということは、どういうことだろうか?」ということを、学生から教えてもらった4年間の終わり

この3月で山形に越してきてから4年が経ち、いよいよ、4月から5年目になる。大学に勤めての4年間とは、入職当初入学した1年生が4年生になって卒業していく、その時間にあたっていて、先日の卒業式でも、そのような話をした。

あの頃、僕たち(と、あえて「たち」と言わせてもらうけれども)は、大学1年目であったにも関わらず、パンデミックによって、直接会うことはかなわず、前期の授業はリモートで行われた。パソコンのモニタ越しで、zoomで初めて出会い、行われた僕たちの大学生活について、あの苦しみ、あの距離について、つい、学位授与式の挨拶でも話をしてしまったけれども、本当は、あなたたちに対して僕が言いたかったことは、そこではなかった。他が不十分だったと思うので、それをここで書いておきたい。どこかで読んでくれている卒業生もいるかもしれない。

美術大学の教員として勤めるまで、美術大学の学生は、みんな、作家/アーティストになりたいものだと思っていた。必ずしもそうではない、ということは、入職前の面接(そう、僕の勤め先ではしっかり数度の面接がある)で少し聞いていたものの、では、そうではないとはいったいどういうことなのか、ということを、僕は具体的にイメージできていなかった。だから、「とは言っても、美術大学で、絵を描くことをはじめ美術を学ぶということ」は、そのプロフェッショナルを求めて然るべき(例えば、ファインアートを学ぶ学科であれば、「アーティスト」ということだ)、という思いを、働きはじめてからしばらく持っていた。

「美術大学って、そもそもそういうものでしょ」と言う/思う人もいると思う。元も子もない言い方になってしまうが、大学毎の難易度はあるにせよ、ある競争を経て入学がかなう場である以上、求めるのはその上でのプロではないか、という声はあるだろうと思う。

僕自身は、美術大学ではない、一般大学の文学部芸術学科の出身で、日本の近現代美術史を専攻した大学院進学のあとは現代美術のギャラリーに勤め、その後ふたつの美術館で働いたのち、現在は美術大学で教員として働いていている。言わば、それなりの時間、美術の仕事をしてきた人間だと思うのだが、それでも、美術大学は、そういう学生たち(すなわち、いわゆる職業としての「プロ」を目指す)が集う場だと思っていた。

しかし、繰り返すが、必ずしもそうではない、ということを、僕はいまの職場で学生たちから教えてもらった。「アーティストになる」という思い以前に、「つくること」を切望している学生たちが多数いる。こんなことがあるのか、と、僕は、美術大学に勤めてからしばらく経って、気がついて、そして、驚いた。

そう、やれ、「アーティストになるとは?」「あなたの作品のコンセプトは?」という話を、教員はするし、それが仕事のひとつになっている。また、いわば「アーティストのための基礎知識」とでも言えるものを、学生たちに対して講義・検討・議論することが、美術大学での学習のおおきな部分であるとは思うものの、その前提を求めている学生たちばかりではない、ということのようなのだ。

そのことに、多くの学生との対話を経て気がついたとき、僕は、まさしく驚いて、考えを改めることになった。もっとも、このことは、美術大学ごとでグラデーションがあり、アーティストを目指すことが当然、という学生ばかりの大学もあると思うし、勤め先でも、アーティストを目指し、努力を重ねている学生ももちろんいる。ここでしているのは、言うならば、その「目的」の「前」の話である。

オチがない話になりそうな気がするものの、もう少し続くが、そうした経緯から、「目的」の前の「動機」、またはそれ以前の「無意識」(のようなもの)について考えるようになった。一例を挙げれば、「目的」とは「アーティストになること」であり、その「動機」とは「絵を描くこと」である。けれども、それ以前の「無意識」がある。「無意識」という言葉は適切ではないかもしれないが、動機以前の「やむにやまれず、そうせざるをえないもの」という意味でここでは使ってみる。

そういうものがあるとする。というか、そういうものがあるということを、僕は、学生(たち)から教えてもらったと思っている。

どうしようもない。これを、するしかない。でも、すると、苦しかったりもする。にもかかわらず、することが自分にとっては大事で、ほかに代えられない。しないほうが、苦しい。動機とか、目的ありきではなく、それをすることを心身が求めている。それをすることで、自分自身をいかしている。

このような思いを持つ学生に対し、僕から言えることは、「アーティストになるとは?」「あなたの作品のコンセプトは?」などと問うことではない。それが必要な場面ももちろんあるけれども、違うな、と感じる場面がむしろ多い。だから、「つくることを通して、どういうことを、あなたが求めているのか?」というより根源的な問いが発生する。それは、僕自身に対してもこのように問うことにもなる。

深く、深く、「あなた」のものとしての「つくること」を、他人である「僕」は、ともに、どこまで、考えることができるのだろうか? 一般論、当たり障りのないことではなく、「あなた」の「つくること」と、「僕」は、関係を結ぶことができるのだろうか?

できるのかわからないが、そういうことを考えるということがとても大事なのだということを、僕は、今年度卒業する学生たちから、教えてもらったのだと思う。1年生から4年生の卒業制作までを通して見せてもらうこと、授業やそれ以外で、ともに話すことを通して。ゼミの学生からは、特に、教えてもらったという気がする。

僕は僕の考えていることや知っていることを差し出して、学生たちは学生たちの考えていることや知っていることを差し出して、教員と学生または年齢差のあるための上下の関係などではなく、互いの違いを前提として、互いを信じながら、尊重しながら、できる話があった。そういう時間があったことを、本当に、僕はありがたく思っている。

職業的な意味でのプロを目指すという以前に、「絵を描くことをはじめ美術を学ぶということ」とは、なんなのか? 何度でも言うが、僕は、そのきわめて大事な問いと、そこから広がる深い海のような領域について、学生たちから教えてもらった。何度でも、何度でも、これから繰り返し考え続けるだろう。それが土台のおおきな一部になっていくと思う。もちろん、僕は僕の専門領域のことも考えながら。

だから、ありがとう。卒業、本当におめでとう。

「いつか巡ってまた会おうよ最終回のその後も」

羊文学「光るとき」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?