見出し画像

「いま」「自分が」「いる」——吉江淳さんについての、これからのためのノート

吉江淳さんと知り合ってから、気づけば結構な時間が経っている。2017年だったかな。それから7年くらいが経って、今日は、ニコン主催による第25回三木淳賞を吉江さんが受賞され、その授賞式に参加させていただいていた。

出会いの最初は、写真家のタナベゲンゴさんから、『四号線』という作家たちの自費出版かつテイクフリーの写真誌をつくるので、(僕が勤めていた)太田市美術館・図書館のラックに置いてもらえないか、という連絡があったことが始まりだった。いま調べてみると、1号が2017年3月発行なので、その前後にご連絡いただいたのだと思う。国道4号線にちなんで、地縁としてゆかりのある写真家たちのアンソロジー的に編まれたその写真誌に、吉江さんも参加されていて、タナベさんから、吉江淳という人が太田市に住んでいて参加しているから、よかったら一緒に飲みましょうというお誘いがあったのだった。タナベさんに群馬県太田市でセッティングしてもらいつつ、なぜか秋田料理のお店できりたんぽ鍋を食べたことを覚えている(残念ながらそのお店はもうない)。

その頃、おそらく僕は、2017年4月オープンと目前に迫った開館記念展のほか、その次やさらに次の展覧会の準備をしていたのではないかと思うが(あるいは、開館記念展会期中であったかもしれない)、開館記念展の次の次の展覧会が、現在の太田市生まれ(旧・新田町)の洋画家・正田壌先生(1928年生まれ、2016年逝去)の回顧的な展覧会で、開館記念展でも展示をさせていただいたのだが、大変残念ながらお会いする機会を持てないまま開館記念展開催前に亡くなられた。2016年12月のことだった。

その展覧会の準備をする中で、ご家族ともお会いし、ご相談して、正田先生のアトリエを展覧会やカタログでご紹介させていただきたいと思い、吉江さんにそのドキュメントをお願いできないかとご相談をしたのが、いわば仕事として吉江さんにお願いをした最初だったと思う。アトリエだけではなく、絵画作品や資料のいわゆる物撮り(複写)、そして展覧会の会場写真も撮っていただいた。それは、僕が太田を退職したいまも続いているようで、嬉しく思っているが、太田の作家や展覧会の仕事を、かなうならば太田の写真家に撮影していただく、ということを、僕はとても大事なことだと考えていた。しかし、それは別に、近くに住んでいるという単純な理由だけではない。

「だけではない」ということは、一因ではあったということなのだが、どういうことかというと、少なからず、ある土地の風景を、生まれた時代は違っていてもどこか共有していると思われる同士であるということが、正田先生の際は重要だったし、その後も、展覧会というのは土地の風景と関わるものだという思いから、やはり大事であった。1928年生まれの正田先生と、1973年生まれの吉江淳さんは、半世紀ほどの年齢差があるが、けれども、近しい土地に育った。その土地に対するまなざしは、違いがあって当然であるが、肌感覚のようなものを、どこか、互いに見知っている、共有しているところがあるかもしれないと思ったのだ。

たとえ、企画者(学芸員)の思い込みでも、どなたかになにかをお願いするということは、必然性がなければいけないし、それはいまも変わりがなく、僕はわりと思い込みが激しいところがあるようで、でもその思い込みを大事にしている。

その仕事はこういう図録になりました。正田先生のご家族からも、全面的なご協力をいただきました。ありがとうございます。

以来、展覧会の記録写真や、作品・資料の複写を展覧会のたびにお願いするようになり、一方で、吉江さんの作品を写真誌や写真集で見させていただき、また、しばしば二人で飲みにも行って、僕にとっては太田での貴重な「飲み友達」(というにはおこがましい、年齢差があるのだが)となって、よく、互いに酩酊したりもした。

こう書くと、なんだ、酒の席で親しくて仕事を頼んでいたのかと思う人が万が一にでもいるかもしれないですが、それは写真家や学芸員をあまりにバカにした発想で、仕事というものは、互いの「仕事」(酒量ではない)に対する信頼があってこそ成立するものであって、僕はただただ吉江さんの仕事に対しての尊敬があるし、おこがましいが、吉江さんも僕の仕事に対してそう思ってくださっているところがあるのではないかと思う。

そしてその僕からの吉江さんの作品に対する尊敬は、太田市美術館・図書館在職中に企画して、僕が退職後に開催された開館3周年記念展「HOME/TOWN」(2021)や、亡くなった父の葬儀の1日を撮ってもらった私家版写真集『flows』(2022)にあらわれている。

一気に飛んで、今日の授賞式には、これもまた「盟友」であるデザイナーの平野篤史さんも来られていて、吉江さんの写真とはどういうものなんだろうか、という話になった。平野さんは、太田市美術館・図書館のサイン計画のアートディレクター/デザイナーであって、吉江・平野・小金沢3人での仕事も少なくない、というか多く、太田での公的な仕事だけではなく、『flows』は吉江さん、平野さん、小金沢の共作である。

で、平野さんと、パーティーでビールを飲みながら話をしていて、僕がそのあと帰りながら思ったことを、ここにメモ的に記しておく。

吉江さんの作品は、ある場所(群馬県太田市)に、「留まって」撮られた、といういい方をされることがある。つまり、「大都市」(東京や京都など)を作品のフィールドとせず、「地方都市」(群馬県太田市など)を中心にしているということだが、これはある意味での正しさと、そうではなさがあるかもしれない。

なにかというと、「留まる」という言い方に、発言された方はそうではないのだと思うが、どこかネガティヴなところを僕は感じてしまう。これは僕自身が群馬県前橋市という地方都市に生まれ育ったことと無関係ではない。

そう、その言葉に、大都市こそ中心であるという感じがしてしまうのだ。実際に、パワー(権力、権威、政治)的な意味では中心なのだけれども、「中央」「地方」という考え方自体を、もっとどうかしていなかければ、その場で生きている僕(たち)は、救われないし、報われないし、楽しくないし、最悪、負い目があるような感じになってしまう。負い目なんていらないのだが。

そうなんだ。けれども、そうやって、「留まる」とか、そうじゃないとか。そういうことじゃ、そもそもないんじゃないか。

吉江さんの写真の特徴は、そういうネガティヴとポジティブではない、中立的なところにあるんじゃないか。「良い」「悪い」ではない。「中央」「地方」ではない。そうじゃなくて、「いま」「自分が」「いる」場所に、目を向けるということ。

だからこそ、そこに、「美意識」を向けるということの難しさがある訳でもあるのだけれども(そこに、それは「ないかもしれない」から)。

目を向けた結果、いいものが見えることはあるだろうが、そうじゃないことの方が多いかもしれないし、でも、それはもう仕方がないことなんだ。そういう中で生きるということを決めたんだ。そういう、美意識以前の生活、つまり「生きること」に対する意識があって、その中で写真というものが立ち上がっている(立ち上がることを望んでいる)んじゃないか。

良い悪いじゃない。ただ「いま」「自分が」「いる」。そこを見つめる。そこを見つめることは、おのずと、自分の周辺を(周辺も)見つめることになるんだろう。ここはどこか。自分はどういうところにいるのか。そこを自分はどう見ているのか。そして、そこには自分以外に誰がいるのか。自分以外の何があるのか。

吉江さんの写真は、そういう逡巡も含めた自他の風景への肯定(絶対に否定ではない)によって成立していると思う。僕は、そこに、大げさではなく「救い」のようなものがあると思っているのだけれど、どうだろう?

今年は、三木淳賞受賞前から決まっていた(「あと」じゃないぜ)、吉江さんのある仕事にご一緒させてもらうことが予定されていて、だからこそ、今日の授賞式は、とにかく、嬉しかった。半分酔いながら書いている今日のこの記事も、そのときのなにかの助けになると思っている。

吉江さん、今日は本当におめでとうございます。嬉しい、最高の1日でした。

*ヘッダー=2021年2月11日午後2時、太田市美術館・図書館開館3周年記念展「HOME/TOWN」での写真家・吉江淳氏と小金沢智の対談「ホームタウンをめぐって」直前の午前中、吉江氏とともに行った利根川への取材における風景での吉江さん。撮影:小金沢智。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?