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言葉を描き、主語を手探る(大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年)


大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智
大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

その日は3月中旬にしては気温が高く、薄手のコートを羽織るだけでも歩いていると汗ばむ陽気で、ギャラリーに着くと通常は閉めているという入口のドアが常時開け放たれていて、美しい光がその内に差しこんでいた。風もときたま入る。こうして振り返っていると、開催されていた大和由佳さんの個展「everyone and one」(ギャラリーHAM、2023年2月25日〜3月25日)は、そういう日の、ひらかれた環境で見ることがふさわしかったように感じられる。

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

コンクリート製の床面と、木製の壁面が好対照をなしながら、空間内に高低差が設けられているギャラリーには、壁面に掲げられている平面作品を中心として、写真、映像、立体等によるインスタレーションが展開されていた。視覚の印象としては白と黄土色が全体の基調色となっていて、壁の平面作品に目を向けると、それらは個々でグラデーションというか、疎密の違いはあるものの、「everyone」という単語が見て取れる。そして、会場の床面に置かれたパネルを用いた作品から、その「everyone」は、ステンシル(転写)によるものだということが理解される。ある「基準」をもとに、「写される」行為を経ながら、それぞれ異なる定着の仕方——すなわち、どれもこれも同じではない——をしている「everyone」。まず、この逆説に、大和さんの意思が見受けられる。

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

個展のステイトメントによると、今回の個展「everyone and one」は、2018年、大和さんが「世界人権宣言」(1948年)に小学校以来の「再会」を果たしたことを機に作られた作品を発端としているという。展覧会のキーワードとなっている「everyone」とは、「世界人権宣言」と、その英文「Universal Declaration of Human Right」に30回用いられている「everyone」に由来するものだ(したがって、パネルには30の「everyone」がレーザーカッターで切り抜かれている)。なお、「everyone」は、和文の「世界人権宣言」(仮訳文)では、「すべて人は」「何人も」と訳されている。

この宣言のスケールは、前文の「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する」という言葉に特にあらわれている。そう、これは、「すべての人間」(all human beings)のためのものなのだ。国、宗教、言語、人種、性別、政治・思想等はこれを妨げない。そういうものとして「世界人権宣言」はあるということが、「everyone and one」でも大事な前提となっている。

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

ところで、私は、大和さんの展覧会を見る前日、大学のゼミで行っている読書会で高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』(朝日新聞出版、2022年)を読んだばかりだった。

その日は、全5章のうち、第1章「戦争の教科書」と第2章「「大きなことば」と「小さなことば」」の発表を学生にしてもらっていた。『ぼくらの戦争なんだぜ』は、「戦争小説」や「戦争詩」、「教科書」が主な題材になっているが、それらを経て見えてくるものは、人が言葉を用いる(書く、話す、考える)際の主語の問題だ。

例えば、このnoteで、私はきわめて意識して、「私」という主語を用いるようにしている。言葉・文章を、自分の責任のもと発すること/書くこと。そのためには、主語を明確にする必要がある。言葉が、私以外の誰かから学ぶ/真似ることを通して取得するものであるとしても、他の誰でもない「私」という個(one)を主語とすることからはじめようとすること。

他方、『ぼくらの戦争なんだぜ』で認められるのは、例えば「国家」という個をはるかに超える存在を主語として語られる/書かれる、数々の戦時下の「ことば」だ。どこかの誰かが、個というよりももっと大きな存在を主語として、ある共同体のために、強い意志の伝達や共有のために語る/書く「ことば」がある。

そんな読書会を前日にしていたということ、というか、前日にかぎらずそういったこと(表現における主語の問題)を父が亡くなってからずっと考えているのだが、それらのことは、「everyone and one」を鑑賞するにあたって、小さくない影響を私に与えていた。「everyone」と「one」は、『ぼくらの戦争なんだぜ』を借りれば、前者が「大きなことば」で、後者が「小さなことば」ということになるだろうか。6人の学生と『ぼくらの戦争なんだぜ』を読みながら、「大きなことば」の危うさ、こわさについても意見交換をしたのだったが、「世界人権宣言」における「everyone」は、危ぶむべきものではなく、人権や自由の尊重・確保は、「everyone」に対してなされるべきものでなければならないはずだ。ならば、結局、その使い方ということになるのだろうか? 「世界人権宣言」の文章から抜き出され、単語となった「everyone」は、その文脈を必ずしもそのまま共有しない。

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

「everyone and one」では、蜘蛛の巣に「everyone」と切り抜いた紙を絡め、それに対する蜘蛛の反応を観察するさまを一部写した映像作品があって、そこでは、蜘蛛が「everyone」を破壊している側面と、「everyone」が蜘蛛の巣というその生態系を阻害している側面が同時に映し出されている。人間の「everyone」からすれば、蜘蛛は異質な他者であり、蜘蛛からすれば、人間は異質な他者であるという、生物の種の違いによる共存と権利の問題が、さりげなくここでは取り上げられている。理想的には、「everyone」の「すべて人は」「何人も」を、そう「大きな言葉」で言ってしまうことでわかったつもりにならず、(異質であるかもしれない)「one」にも目を向け、「everyone」との行き来を通してその間のグラデーションを知ろうと努めること…。だが、はたして、そういったことが現実的に可能なのだろうか?

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

今回の個展の出品作品にはステンシルが使われていると書いたが、その平面作品が何で転写されているかというと卵テンペラ技法によってであり、黄土色とは卵黄によるものである(*1=大和さんから誤りであることをご指摘いただきました。文末の注釈を参照ください)。大和さんの話を聞いていて強く興味を惹かれたのは、大和さんがこの平面の「everyone」について、「描く」という言葉を何度も使われていたことで、つまり、大和さんにとってそれは、「転写」による「複製」ではない。転写するにあたってのベースはあるにせよ、その都度、大和さんは大和さん自身=「one」としての意志を持って、「everyone」と描き/続けたのだろう。その言葉の意味するところを自明のものとせず、手探るようにして。蜘蛛が自らの巣で「everyone」と直面していたように(結果、「everyone」はバラバラになった)。

大和由佳個展「everyone and one」ギャラリーHAM、2023年 撮影:小金沢智

会場の床面には、3箇所、一部が割れて内部を覗かせる卵が置かれていて、私はその部分的に砕けてしまっている卵から、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」を思い出していた。

*1.こう書いているが、誤り。以下の通り、大和さんからご指摘いただきました。「あの黄土色、イエローオーカーという顔料の色なんです。最初は私も卵色になるかなと思っていて、でも卵と油をまぜると、乳化してマヨネーズみたいな色になる。黄身の乾いた色を探したら、土からとれるイエローオーカーがピッタリで使ってます。言葉が最終的に土に戻るみたいなのも、なんかいいなと」。文章を修正するのではなく誤りは誤りとして残しておき、大和さんの言葉を付記としてここに残させていただきます。


大和由佳個展「everyone and one」
会期:2023年 2月25日(土)〜3月25日(土)
休廊日:日曜日・月曜日
会場:ギャラリーHAM
   〒464-0075 愛知県名古屋市千種区内山2-8-22

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