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寄稿:私家版写真集『flows』について(吉江淳)

「flows」という写真集とは何なのか、「flows」を見る/読むという企画とは何だったのか、ということを会期中に幾度となく考えていた。
勿論、それらは小金沢智という人物によって生み出されたことは間違いがない。
前野さんも言っていた通りそこに意図は大きくあるものの、確信犯的だったり予定調和といった感じは一切しない。まるで海や大きな川に自ら小舟を浮かべて流れのままに彷徨っている、先へ先へと流れ進んでいるのを受け入れているような印象を受ける。

この写真集には中心がない。亡くなった小金沢啓一という人物を巡る1日の記録だ。彼の意図も言葉もあるわけではない。そこを囲み、息子である小金沢さんが意図し、私がその1日を撮り、平野さんが後日形作る。磯辺さんが場を提供してくれ、前野さんが言葉と曲を選んで歌う。
我々が皆で不在の周りにいて、それはまるで火の周りを手をつないで囲みながら小金沢さんが中心に向かって声を発しているイメージを私に連想させる。
それは言い換えれば儀式だ。死者をめぐる儀式だ。
つまり小金沢さんはそこでシャーマンとしての役割を果たしていたのではないか。

葬儀当日、私の目には感情を隠し、定型文を使って挨拶する小金沢さんが映っていた。その光景は少し不思議でモヤモヤするものだった。本来、言葉や表現に対しとても意識的であるはずの小金沢さんにその面影は感じなかった。しかしそれは父親の死という私個人としては経験したことのない大きな事実からくるだろうということは推測に硬くはなかった。しかし結果的にはその考えは間違っていた。いや間違っていたというべきではないだろう。悲しみや戸惑い、関係性によってその場でせざるを得ない対応というものはある。2021年12月12日に小金沢智さんがそうせざるを得なかった対応はあれしかなかったのはおそらく事実だったと思う。
一方でそこに収まらない感情が彼の心の奥にあった。当日にそうせざるを得なかった想いと同じ力を持った真逆の感情が今回の写真集を産む大きな力になっていることは間違いがないはずだ。
彼は彼なりのやり方で、もう一度父親を弔いたかったのではないか。死者に対する儀式としてお葬式ではない何かで。
本来あったその大きな欲求が自ら不在と現世を繋ぐために我々と共に有を生み出したのだと思う。

神や精霊、自然物と人間世界とを繋ぐシャーマンとはつまり表現者そのものだが、無意識にその役割を担っていた小金沢さんの行為は、それを主な活動の場とする人よりもはるかに表現的だったと思う。一方でそれは彼がキュレーターを職業とすることに大きな要因があるのではないかと考える。
強い想いを持ちながらも第三者に撮影を依頼し、デザインを任せることで、誰のものともつかない表現物を作り出してしまった。死生観を共有する人物を呼び寄せて曲を歌ってもらうことで問題を軽く別の地点へと運ぶことを可能にしてしまった。この、...しまった。というところに強い意志を持ちつつも確信犯的ではない、小金沢智さんの表現を扱う能力が現れていると思う。そうした表現のズレや在り所に多くの鑑賞者、来場者が巻き込まれて疑問と対話を産み、共感を生んでいったのではないだろうか。

文章・写真:吉江淳(よしえ・あつし)
1973 年⽣まれ。写真家。故郷である群⾺県を中⼼に町と川を被写体として写真を撮り続けている。2021 年太⽥市美術館・図書館にて⼩⾦沢智⽒のディレクションにより美術家・⽚⼭真理、詩⼈・清⽔房之丞との三⼈展を開催。2022年2⽉管啓次郎⽒の詩集「PARADISE TEMPLE」出版記念展をiwao galleryにて開催。写真集『地⽅都市』(蒼穹舎 2014年)『川世界』(salvage press 2016年)写真冊⼦『出⼝の町』vol.1 ~6(2018年より不定期刊⾏中)がある。

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