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「つくること」と「見せること」の逡巡

明日9月3日(日)まで、やまがたクリエイティブシティセンターQ1のTHE LOCAL TUAD ART GALLERYで、小金沢ゼミ展として「井戸と窓」という展覧会を開催している。これは、私が東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コースの教員として勤めて4年目、ゼミとしては3期目の学生を迎えることになって、はじめて行っているものだ。

動機として、日本画コースという「日本画」を学生たちに教授するコースにいながら、私自身は、「日本画を描く」専門教育は受けておらず、近代以降の日本美術(史)を学び/研究/展覧会を行っており、キュレーターの経験をもって学生を指導する立場の人間として、自分の職能を学生たちに還元するためには何ができるのか、ということを考えた結果、それはやはり展覧会なのではないか、ということで、今回の開催に至っている。

東北芸術工科大学の日本画コースでは、3年次の秋、おおよそ30名から40名の学生たちが5人の専任教員のゼミを選択・希望する段階で、あらかじめ、小金沢ゼミでは展覧会+読書会を成績を問わない課外活動としてする(その分の労力とお金がかかる)、ということを私から伝えた上で今回の学生たちは手を挙げていて、だから、とはいえ、なんとか、今回開催できてよかったな、という安堵の気持ちを今、もっている(THE LOCALは、決して大きな会場ではないが、展覧会を行うということは、規模の大小はあれ、簡単なことではない)。

さて、私が、美術大学の教員として勤めて4年目だということは今書いたとおりだが、4年目となって、勤める前に抱いていた「美術大学の学生」の「イメージ」とは、ずいぶん乖離しているということを、ここで書いておきたい。というのは、「つくること」と「見せること」は違う、ということだ。私は、それまで(つまり教員をするまで)、それはイコールだ、と思っていたが、学生たちを見ていると、必ずしもそうではない。「つくること」は、必ずしも「見せること」に繋がっているわけではないし、そして、では「見せること」を選ばないことがよくない、ということではない。

「作家(アーティスト)として世に出る」ということを目的とするならば、「見せること」(プロモーションをすること)を考えなければ仕方がない側面があるのだが、いや、「つくること」の目的(ゆくさき)はそればかりではないようだ、ということを、学生たちと話をしながら思っているし、私自身、『flows』という私家版写真集を誰に見せる目的でもなく作ってしまった中で、十分、自分ごととして、思い知らされている。「つくること」と「見せること」は、全然、違う。

その間の逡巡が、今回のゼミ展が形作られる・出来上がっていく過程で、学生たちの作品・展示・彼らの言葉としてあらわれていると思われることは、私としては、学生たちに対する事前のケアが足りなかったのではないかと思うと同時に、それでも、最終的に、この展覧会においては、学生たちが(少なくとも、持参した作品や、言葉について)「見せること」を選んだということに対し、私としては、どういう態度・言葉を、彼らに対して伝えることができるだろうか、ということを思い、考えている。もう、今日は、最終日前日であるわけだけれども、まだ、まったく十分ではないような気がしている。

そう、個展であれ、グループ展であれ、誰かによってつくられた、しかも、その、どこかしらに展示された作品を見るということは、そういった、逡巡のはてに起こっている。

それらの作品に対して、「キュレーター」という職能の私としては、「世間一般に発表された以上は、作家は、どのような意見も受け入れるべき」という声を、自ら発しそうになるが、実際は、そんな、簡単なものではない。「いや、発表するとはそういうことだろう」ということを、言う人はいるが、そこには、発表されたもの・発表した人に対する想像力が、多少なり、なければならないと思う。甘いと言われようがそう思う。「世間一般に発表された以上は、作家は、どのような意見も受け入れるべき」という声は、あまりに、暴力的で、そんな暴力にさらされなければならないのだとしたら、私(たち)は、どうして、「つくること」そして「見せること」を続けることができるだろうか。「つくること」「見せること」は、それ自体、それをしようとする当人にとって、「厳しさ」があるものである。一方で、「厳しさ」だけではない、別の尺度がなければ、「つくること」も「見せること」も、どうにもならないのではないか。

これは言うまでもなく、今回発表している学生たちの作品が「甘い」ということではない。彼らは彼らの「厳しさ」の尺度の中で、作品を作り、それを発表している。とても勇気があることだと思っている。その切実さに対して、私は、どれだけの「私にとっての」切実さによって、絵と、関係を結ぶことができるだろうか。そのことを考える必要があるのではないか。

というか、それ以外にない、ということを、学生たちとの付き合いが続くここ数年で考えているということが、今、わかった。

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