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「保証された価値」に対する態度について

今後、なかなかこういう機会もないと思われることに、小田原のどかさんと山本浩貴さんの二人が編著者として企画された、『この国の芸術:「日本美術史」を脱帝国主義化する』(月曜社、2023年)への私へのインタビューがある。「小金沢智インタビュー〈近代〉を問い直すキュレーション——「日本画」の概念あるいは「地方」という視点から」というタイトルで、644ページから683ページにかけての約40ページ、掲載されているのだが、そこで私が話していることの根本には、「山下先生が、保証された価値をそのまま受け入れるのではなく疑いなさいと、在学中口を酸っぱくしてお話ししてくださったことから多大な影響を受けていると感じます」(p.659)ということがある。山下先生とは、美術史家の山下裕二先生のことで、私は2002年4月、明治学院大学文学部芸術学科に入学し、2008年3月、同大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程を修了するまで、学部3年次から、山下先生を指導教官として日本美術史を専攻していた。

昨日・今日と、勤務先の東北芸術工科大学日本画コースでは、画家の田中武さんを非常勤講師としてお迎えして、2年生を対象にした演習「日本画演習2(古典から描く)」の講評があった。この「古典から描く」という課題は、2021年度にはじめて設けたもので、「日本画演習2(粉本から描く)」とのセットとなっている。もともと、本学の日本画コースでは「古典模写」がカリキュラムとして組み込まれており、それは、全国の日本画を学ぶ多くの美術大学で採用されていることであるのだが、「古典を模写する/古典から学ぶ」ということが、いわばテクニックの学習を含めつつもそこを超えて、現代において絵画を制作することとどう関係づけられているか、ということをいっそう考えることが肝要なのではないか、という思いがあって、当時着任1年目の私から提案したものだった。田中さんは、日本のいわゆる古典絵画(とりわけ、江戸時代以前だが、それだけに限らない)からの研究を作品制作に取り入れながら、現代の事象をテーマとして制作している作家である。

演習では、例年、田中さんからの「古典絵画を引用する」ことに対する丁寧なレクチャーを経て、引用元の古典絵画を学生自身が選択し、それぞれが作品のテーマを明確に設定した上で制作に取り組んでいる。この、研究会・講評会において、演習期間中学生の作品の行方を見ている(指導している)私たちが特に重視しているのは、「作品のテーマは何か」、ということだ。

ともすると、絵画の研究会・講評会は、作品における、色、構図、デッサンなど、技術的な話となることがしばしばであるが、私たちは、この演習においてはそういう話を極力しない。というか、むしろ避けている。する場合もあるが、その際は、学生たちが個々の作品で考えている「作品のテーマ」とそれらが強く関わっている場合に限る。「色、構図、デッサンなど」は、絵画の基礎と言え、大事であることに私(たち)も疑いはないが、さらに大事なことは、なにを表現しようとしているのか(作品のテーマは何か)ということであり、そこを基点として「色、構図、デッサンなど」を考えるという順路が必要なのではないか。言わば、それらは基礎であるが、テーマに先立つものではない。

絵は、「テーマを考える」ことだけから生まれるものではないことは、わかっているのだが(例えば、生理的に描くという行為が行われることがある)、それを考えることが、絵というもの自体を考えることであると思うから、そういうことを行なっている。2日間の講評では、履修している30数名の学生の作品を見、話を聞き、田中さんと私で話をした。

そして、これは課題の主題ではないのだけれども、別の側面においてとても大切なことは、田中さんと私で学生たちと話をするが、その話は、あるズレを前提としているということだと思っている。すなわち、履修している学生の中心である2年生は10代後半から20代であり、他方、田中さんと私は40代前半である。この(年齢の)ズレは、「作家」とその作品の「鑑賞者」という関係性において、共有しているものの差異を浮き彫りにさせる。大雑把に言ってしまえば、学生たちの常識と、教員たちのそれの違い。しかし、第一、学生たちも個々のパーソナリティがあり、私と田中さんは同い年であるものの、違う人間であることは疑いようもない。学生も教員も、という意味での「私たち」は、「芸術」「美術」「日本画」という領域(ジャンル)において、「共有しているものがある」と言える。だが、「共有しているものがある」けれども、そこには多種多様の差異がある。世界の見方が違う、ということだ。私たちは、同じ場にいても、すべてを共有しているわけではないし、第一、そんなことはできない。ならば、そのズレを前提とした上で、前提としながらも、どのようにして、ともに作品を考えるということができるのか? 「芸術」「美術」「日本画」において。

「保証された価値をそのまま受け入れるのではなく疑いなさい」と、山下先生から言われた言葉は、以来20年、私が「美術」の領域で仕事をする上で、ということに限らず、私が生きていく上で、とても大切な、いわば「指針」のようなものになっている。

この「保証された価値」自体が、普遍なもの・ことでは必ずしもなく、「私」と「あなた」では違うということ。「保証された価値」とは何かという問い自体が、「私」と「あなた」のパーソナリティを問うているということ。

教場で教わってずいぶんな時間が経ち、今さながら、私はそのことを考える。「保証された価値」とは、時代や土地によっても異なるし、仮に同じ時代を生きる「私」と「あなた」でも違うし、さらに、「私」の中ですら、変わりうる。20年ほど前、山下先生から教えられたことは、「あなた自身はなにを価値として考えているのか、そのとき、そう考えるあなた自身のことも疑ってみなさい」ということでもあったのではないかということに、今日、気づかされる。「あなた」が「私」自身を問い直すということだ。

学生たちの作品を見ることや、学生たちとの会話は、だから、とても面白く、大切で、かけがえがない。同じ時代を生きながら、当たり前のように、違うことを考えている。でも、本当は、誰もがそうであるはずなのだ。私たちは、どこまでも違う人間であって、にも関わらず、何かによって、さも私たちが「同じ」であるかのように振る舞わされる場面があることに、重大な問題がある。

例えば、自分とは異なる考えを持つ他者に対して、大きな声、雑な声、過激な声を、聞くことがある。それは、自身にとっての「(保証された)価値」を前提としての違和感、不条理などからそうさせるのだと思うが、その「(保証された)価値」自体が、第一、同じではない。

「保証された価値」とは、まやかしではないか。だから、そういうものは「ない」ということの上に、自身の考えを積み重ねる、他者のそれを聞くということをしたいし、そういう話を、互いを尊重し合うことのできる人たちと交わしたい。静かで、小さくとも、丁寧な声で。例えそこがクローズドな場であっても。

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