『苗 第一歌集』を読んで

長井めもさん、カラスノさん、あきやまさんの三人による短歌ユニット「苗」。その第一歌集を拝読しました。初読からは時間が空きましたが、改めて読み返して好きな歌を引きながら感想を綴ります。

ほとりへとひとりで向かう辞書からは編み尽くせない絹を纏って
/長井めも 連作九首「緋鯉」より

長井めもさんの連作は、うたの日の投稿歌と雰囲気が違ってびっくりしました。終始仄暗さが漂っていて怪談のような怖さに惹かれる連作です。「ほとりへと~」の静かなうつくしさが好きですが、突き抜けた破調の「アイスコーヒーがもう全然減らなくなって夏が終わって夏が終わってから思い出す」も強く印象に残っていてとても好きです。

ひと粒のダイヤモンドをはずしたら少しまずしくなった横顔
/カラスノ 連作九首「with and without you」より

別れの色を強く感じるカラスノさんの連作。投げやりなようにも感じる一首目から、だんだんと不在を受け入れて最後には顔を上げて進んでいく様子が印象的でした。「朝焼け」「ダイヤモンド」「スポットライト」とさまざまな輝きが散りばめられ、またそれらが消える瞬間までもがうつくしい連作です。

声変わり前に覚えた歌をいま随分低く口ずさんでる
/あきやま 連作九首「キッチンライト」より

あきやまさんの連作は一首一首がきれいな色を持つ、パレットのように感じました。「川」「海」「芝生」「火」など映像がぱっと浮かびやすく、何気ない日常を言葉で色付けしたような読み心地がとても素敵です。「声変わり~」の歌は歌集全体の中でも特に好きな一首です。

絵日記に描けない夜の温度、ゆめ、寝言もぜんぶここにあるのに
/連作九首「秋を渡る」より

お三方合作の連作。花や鳥が現れ消えながら流れてゆく春夏秋冬がうつくしく、また恋人たちの別れを感じるせつない連作でした。
左上の名前の順番でつくられているのか、ばらばらなのかわかりませんが、なんとなくこの歌はこの方かな? と想像しながら読むのも楽しかったです。


エッセイと一首互評について。
驚いたのが、エッセイもみなさんどれも面白かったこと。短歌だけじゃなくエッセイも評も座談会も面白い衝撃の第一歌集です。
エッセイで特に印象に残ったのがカラスノさんの『「しむ」のはなし』。私も小さい子どもがいるので日々「母国語を会得していく過程」を見ているはずなのですが、目からうろこがぽろぽろなお話でした。
「一首互評」は各自の自選一首に他の二人が評を書かれていて、この評がまた愛にあふれていて歌の味わいを深めていました。


「五十薔薇」より(うたの日 首席歌)
それぞれ二首に評+好きな歌二首を挙げます。

悪戯を仕掛けてきみは校正を逃れた誤字のように笑った/長井めも

恋の歌として読んだ。「きみ」の小悪魔的な笑顔が思い浮かぶ。きっと悪戯は大成功したのだろう。主体は「きみ」の笑顔を「校正を逃れた誤字」に例えてしまうほどの文学青年だ。これからも振り回されつつ楽しい青春を送るのだろうな、と微笑ましくなった。

遺伝子を組み換えるよう本棚にきみから借りた本をおさめる/同

本棚というのは持ち主本人を表すようなものだ。その本の配列が「遺伝子」に例えられているのは完璧な比喩だと思う。「きみ」から借りた本は決して異物ではなく、主体の遺伝子すら組み換えてしまう。「きみ」はおそらくまだ恋人か友達なのだろうけれど、一緒になりたいという深い愛を感じた。

ブラウスの第二ボタンを解放しミントブルーに爆ぜろ初恋/同
「これこれ」とまだ声がするマルボロを線香として立てた仏前/同


その役を終えしつけ糸を抜くように透き通っていく母の足跡/カラスノ

「その役」とはやはり母親としての役割だろうか。主体はひとり立ちをし、一人暮らしを始めるのかもしれない。子どもの人生がずれないように、けれど必ず外れるように縫われたしつけ糸のような母の足跡。「透き通っていく」は死の予感にも読めるが、役目を終えた母のこれからにも主体のこれからにもエールを送る、未来ある歌として読みたいと思った。

焼香の順番がくる まだ母の塩ひとつまみの手をおぼえてる/同

焼香の親族の順番は早い。「順番が"くる"」ことから喪主は父親が務め、二番目か三番目に順番がきたのだろう。静かな様子からそれなりに大人だと思われるが、子どものときは母が料理をするそばで学校の様子を話したり、料理を手伝ったりと、素直でやさしい子だったのではないだろうか。一字空けに母を思い出す瞬間が可視化されてせつない。

天気図のようなエコーの真ん中の台風の目の、これがきみだよ/同
終わらない学級会で手を挙げる友をただ待つ眼裏に海/同


遠足のお菓子を何度も確かめて地球が自転を急かされている/あきやま

遠足を心待ちにする子どものわくわく感が、地球の自転をも急かすという壮大な短歌。子どものかわいらしさはもちろん、地球は子どものために回っているのだ、という作者の大きな優しさとまなざしを感じられた。

図書館の貸し出しカードを盗み見てあなたを解体してた放課後/同

一見さわやかな青春の雰囲気を醸し出しつつ、「盗み見て」「解体」しているのだから、主体の恋心には病んでいるような空恐ろしいものを感じる。けれど、そこにどうしようもなく惹かれてしまう。過去形であり、主体が大人になってふと思い出しているようなところに、この恋は叶わなかったのかな、今はまともな恋をしているのかなと少し安堵さえしてしまった。

ほんとうは比べなくてもいいのだとどんぐりが皆寝転んでいる/同
最後の日はじめて折ったスカートを春風が少しくすぐっている/同


「自選十首」より
それぞれ一首に評を。

降りたことのないバス停へ降りてゆくひとびとにある似たような日々/長井めも

仕事終わりの人々が静かに揺られているバスから、自分は降りることのないバス停へ降りてゆくひとびとを見るともなしに眺めている。フィクションの世界のような特別な人間などいなく、ひとりひとり違うはずの誰もが似たような日々を送っている。そしてそこにはもちろん主体本人も含まれているのだ。静かな雰囲気から学生よりも社会人を想像した。特別な自分ではないけれど、それが短歌として表現されると取り留めのない生活も詩になり、少し救われる気がした。

ベビーカー押すわたしよりやや早くきみと出会っている夏の風/カラスノ

なんてやさしくてさわやかなんだろう。確かにベビーカーは押すものだから、そこに乗っている子どもは押している人間よりも少しだけ早く夏の風に出会うことができる。夏の風の気持ちよさ、それを子どもにも感じてほしいと思い、常に子どもを気に掛けている主体のやさしさがあふれていて、とても読み心地が良かった。

まんなかにいてくれた君が化けていきまよなかになるさよならになる/あきやま

「化ける」から「君」はお化けになった、死んでしまったのだと読んだ。「まんなか」は主体の心の中心ということだろうか。君が死んでしまって、主体の心はまよなかのようにまっくらになってしまったのだろう。まんなか→まよなか→さよならと言葉の移り変わりとともに、化けたきみがどんどんいなくなってしまうようでとてもせつない。

「田端会議」について
お三方の座談会ですが、これ、面白いのはもちろんめちゃくちゃ勉強になりました。長井めもさんが「うたの日」のサーチ機能で首席歌を読んでいた、というのを真似してみたり(首席が多すぎるので秀歌だけですが汗)。カラスノさんの「題からいかに離れたところにいくか」に衝撃を受けたり。そしてあきやまさんのこどもにアルバムを一緒にめくるように、短歌を読んでもらいたいというのを私もやってみたいと思いました。

読み終えて
読み応え抜群すぎる第一歌集でした。そして詠む側としても本当に刺激になる一冊で、「苗 第一歌集」を読んだあとの十二月は、それまでよくて月一~三本ほどだったうたの日の薔薇が半月ほどで五本咲きました(実話)。これからも折に触れ読み返す一冊になると思います。

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