苗『苗 第二歌集』を読んで

苗と苗の歌集について

<苗>は長井めもさん、カラスノさん、あきやまさん三名による短歌ユニット。第一歌集が2021年11月23日に刊行され、2022年11月20日東京文学フリマ35にて第二歌集が刊行された。内容は第一歌集を踏襲していて、個人連作(九首から三十首にパワーアップしている)、五十薔薇(web上の短歌投稿サイト「うたの日」の首席歌)、自選十首、そしてエッセイ、一首互評、田端会議と今回もボリューミーな内容になっている。
少し自分語りになるが、『苗 第一歌集』を読んだとき、わたしの短歌歴は九ヶ月くらいだった。詠むことはもちろん、読むことも下手で特に連作となると一首一首は好きだなと思っても、全体を読み取ることができなかった。当時のわたしは特に「五十薔薇」に注目して読んでいた。「うたの日」の首席歌だけあって一首の力がものすごく強い。足踏みしていた短歌の階段を、一段も二段も昇らせてもらった。
第二歌集が刊行された現在、わたしの短歌歴は一年九ヶ月ほどになった。今回わたしが一番楽しみにしていたのは連作だった。第一歌集を読んだ頃と比べ、これは自分のなかで大きな変化だったと思う。まだまだ初心者にはかわりないのだが、毎月の総合誌などでわずかなりとも連作に読み慣れてきたのかもしれないし、武田ひかさんが発行された合同歌集『祭の跡に』の連作たちにすごく感銘を受けたので、その影響も大きいと思う(ちなみにこの歌集には長井さんとカラスノさんの連作も収載されている)。
何が言いたいかというと、苗の歌集は懐が深くて、短歌を読み慣れていてもそうでなくても楽しめる構成になっているのだ。

前置きが長くなったが、歌集の感想をゆるゆると綴っていきたいと思う。今回は連作の感想をメインとした。

個人連作

夜の食卓/長井めも

いくついくつ千切れば止まるプラナリア、あるいは叶いそうなだけの夢

冒頭の一首。
プラナリアは再生能力が非常に強く、切断した箇所からそれぞれ失われた頭部などが再生して増殖する生き物だ。「いくついくつ千切れば止まる」、かごめかごめのような童謡を思い出すリズム。どこまで千切っても止まらないのだという反語のようにも読める。これは後々出てくる畜産物の肉を削る作業などを思うと、屠殺に対する主体の意識の表れのように思う。
「叶いそうなだけの夢」は、「いくついくつ~」がかかるものとして読んだ。一見後ろ向きな言葉なのだが、逆に言うと叶いそうな夢を千切れては再生するプラナリアのようにたくさん持っている、という前向きさを感じた。

長井さんの連作は、畜産業に従事する主体の一日が描かれている。「食」に関わる職業なだけあり、生活と仕事が影響し合っていて、地続きのような印象が強い。
通勤風景から始まり、電車のなかや周囲のひとたちの描写が続く。主体はよく周りを見ているタイプの人間なのだなと感じた。

包丁をしまい忘れるイラストが磔刑される掲示板、みどり

ここから職場での描写となる。包丁を多用する現場で、警告の掲示がされているのだろう。ここで「磔刑」という語が出てきて驚く。あらためて調べてみるとおそろしい刑罰だった。それだけ「包丁をしまい忘れる」という行為はこの職場において罪深いものなのだろう。最後は「、みどり」とひらがなでマイルドな印象になる。このギャップが印象的だった。イラストもおそらくデフォルメされた可愛らしい感じに描かれているのではないだろうか。

わたしにも血を抜かれれば一本の枝肉として雪降り積もる

「枝肉」とは頭部、尾、四肢端などを切取り、皮や内臓を取除いたあとの肉体のこと。おそらくこの職場では枝肉をスーパーなどで販売するために処理しているのだろう。「わたしにも」は血を抜く工程を行うひとが複数いて、主体もそのなかのひとりであると読んだ。「雪降り積もる」という結句が幻想的でうつくしい。血を抜かれた枝肉は雪が降り積もるようにゆっくりと白くなっていくのだろうか。

まな板の歌やスライスパックの歌はストレートに読めて、こういう読み口の歌が挟まれると安心するなと思った。スライスパックの歌では畜産物は牧場などから消費者の手に渡るまで、何度も旅立ちが繰り返されていることに気づかされた。

帰宅の風景へとうつる。「焚書」がひどく印象に残る。なんとなく漠然とした不安をあおられるような、黄昏時にふいにどこかに迷い込んでしまいそうな歌が続く。

ひとりきりのナイトミュージアムよく歩く いいことないよ斜に構えても

今回の連作のなかでも特に好きな一首。「ナイトミュージアム」といえばわたしはショーン・レヴィ監督の映画を思い出す。夜になると動き出す展示物と夜間警備員の主人公のファンタジーアドベンチャーで、内容はあまりよく覚えていないのだがコミカルで明るい印象だった。ラストシーンのリズムに合わせて主人公が懐中電灯をしまい暗転する、という演出がめちゃくちゃ好きだったのを覚えている。とにかくわたしの知る「ナイトミュージアム」はなかなか明るいもので、この十八首目のどこか軽やかな雰囲気とマッチしていると思ったのだ。「いいことないよ斜に構えても」。職場の人間関係のことだろうか。斜に構えたひとがいるのだろう。主体はあまり気にしていない感じで、ひとりきりのナイトミュージアムを歩くという感覚がいいなと思った。

空は夕焼けからだんだんと夜へと移り変わり、主体が帰路を進んでいく様子が丁寧に描かれる。手や皮膚に仕事をしていた自分がついてくる。

二十四首目に「しんしん」というオノマトペが出てくる。「しんしん」は十一首目に続いて二回目の登場で、四首目には「しゅん」も出てくる。この三つのオノマトペが肉のやわらかさを守る片栗粉みたいに作用しているように感じた。

着脱の出来る身体の部位としてねむらせてやるハードレンズを

本連作には身体の部位が散りばめられている。広く拾ってみると「背脂肪」「赤身」「枝肉」「裸足」「基節骨」「手」「皮膚」「眼窩」「嘴」「肋骨」「関節」。そしてこの一首に出てくる部位は「ハードレンズ」である。わたしもコンタクトレンズを毎日着用している(ソフトだが)。あれは不思議なもので、目に直接レンズをくっつけるという発想を最初にした人はすごいなとたびたび思う。なるほどコンタクトレンズとは、「着脱の出来る身体の部位」なのだ。それをわが子のように「ねむらせてやる」という描写が面白い。

手を合わせ今日の墓標であることをあらためて知る夜の食卓

一読したときに、あまりの佇まいのうつくしさに息を呑んだ一首。表題歌である。単独でも秀歌だが、この連作のなかに置かれることで「今日の」が際立ち畜産業に関わる主体の真摯さや誠実さを知ることができる。人間に食べられるために育てられ、殺され、解体され、処理され、そして調理された動物や植物が並ぶ食卓自体が大きな墓標なのだ。手を合わせることに感謝だけでなく、処理の段階から食べることまでをこなす主体は弔いの意味まで込めていた。
わたしもわが子にあいさつの一環として「いただきます」を言わせているが、その六文字に込められた意味をきちんと伝えていく必要があることをあらためて思い知った。

最後の歌で三日後の米粒を拾い、主体が取り戻したものとはなんだろうか。倒置というよりはループするような結句に、わたしは繰り返される日常を感じた。
毎日必ず行われる食事という行為につながっているものを、立ち止まって考えさせてくれる連作だった。

マルエツ・ブルース/カラスノ

カラスノさんの連作は十二首のものとニ十首のもの二作品がある。こちらは十二首で構成されている。タイトルにずばり「マルエツ」とある通り、スーパーを舞台にした連作だ。「マルエツ・ブルース」という渋さにじわじわと期待が高まる。
わたしにもスーパーはなじみ深い場所なので想像しやすく、マルエツで買い物をする主体の背後霊になったような感覚で読んだ。

ただ近いという理由でマルエツへ向かう殊更よいことはなく

一首目でサランラップがなくなったという主体がマルエツへ向かう場面。タイトルにまでなっているが、マルエツにこだわりがあるわけではないらしい。けれどスーパーというものは、特に今回のように急遽なくなったものを買いに行くような場合はそんなものだろう。

店長が変わったらしい品出しの店員たちの会話ほがらか

主体はこのマルエツの常連らしい。前の店長はあまり人望のない人物だったのだろうか。店長が変わることによる買い物客の影響がどれくらいあるものなのかわからないが、店員はほがらかな方が気持ちよく買い物ができる。主体の背後霊として店員たちの会話に耳をそばだてながら、そんなことを思った。

ブリの歌では主体がブリに同情している様子に思わずくすりとしてしまったが、次の「罪もなく死んだ魚」という初句に目を奪われる。スーパーに並んだ生鮮食品はみな「罪もなく死んだ」のだ。このあたりは前に置かれた長井さんとの連作とも響いてくる(「田端会議」によるとこの順番も意識していたとのこと)。

レジまでの間隔ひろく食玩の棚をながめる 欲しくならない

「レジまでの間隔ひろく」はコロナ禍で並ぶ列も間隔をあけるようになったことを思った。ある程度長い列になっていると思われるので、主体が眺めているのはレジ前に置かれている棚ではなく子供向けのお菓子コーナーだろうか。昔なら欲しがって駄々をこねたような食玩を手持ち無沙汰にながめたところで、別に欲しくはならないのだ。大人だから。

スーパーでの「あるある」と思える現象が、ややシニカルな感覚で最後まで描かれる。最後にはUSENの音楽に注目する描写もあり、タイトルの「ブルース」がぴったりな連作だと思った。

光あれ/カラスノ

カラスノさんのニ十首の連作。主体は妊娠しているのだが、産むことに対する不安が強くあらわれているように感じた。田端会議でも触れられているが、連作のなかにたくさんの「光」が散りばめられている。そしてわたしは第一歌集のカラスノさんの連作「with and without you」でも同じことを思ったのだ(なお、『苗 第一歌集を読んで』という記事で感想を書いている。いまさっと見返してみたら連作の感想がめちゃくちゃ短くてびっくりした。それだけ読み取れていなかったのだ……いや、いまも読みには自信がないのだが)。これは言おうか迷ったがやっぱり言ってしまうと、筆名が「カラスノ」さんなだけにきっと光るものを収集する性質をもっていらっしゃるのだろう。

でも産むんでしょ、と云われてかんたんに事実は思想をやりこめている

いきなり印象的な歌が置かれている。「でも産むんでしょ、」ではじまる構成もそうだが、主体が妊娠していること、妊娠していることに対してある思想が自分のなかで反発していること、「でも産むんでしょ、」と云われていること。「やりこめている」という語の選び方に、まだ主体のなかの思想が納得していないことを思う。「でも産むんでしょ、」は会話(相談?)相手のようにも、もうひとりの自分のようにも読める。

思想と深く絡み合っているのだろうと思う単語が登場する、心に刺さる歌が続く。

どうぞ、って立つ人がいて二人ぶんの重みでしずむ席のぬくもり

思想に揺れている主体はしかし、大きくなっていくお腹の子を愛して慈しむ様子がこの連作からは伝わってくる。
電車やバスなどで席を譲られた場面。席を譲ってくれた相手と自分の体の「二人ぶんの重み」にぬくもりを感じている、心温まる一首だ。

「自己啓発本」「ハンドメイドのアクセサリー」「免許更新所」「パピコ」。主体の日常が独特の小物選びとともにゆったりと綴られる。そのなかには「生産者責任を問う」という、揺れの部分もそっと置かれている(深読みすると、ハンドメイドのアクセサリーの歌もそうなのかもしれない)。

響きわたる号砲がありそれからはいのちを不可逆ごと抱きしめる

この連作のなかでも特に好きな一首。
「響きわたる号砲」は陣痛や破水と読んだ。ひとたびそれが始まれば、あとは痛みに耐えながら産むだけだ。「いのちを不可逆ごと抱きしめる」に込められた主体の覚悟と愛情を思う。

続く一首もとても印象的だった。わたしも子どもを二人産んでいるのだが、この歌を心に留めておきたいと思った。

光源をいつかたずねる日が来てもそこに愛しか見つからないで

「光源」とはなんだろう。ここまでこの連作を読んできて、わたしは「生きている意味」だと思った。子が「なぜ自分は生まれてきたのだろう?」と思ったときに、「愛しか見つからないで」と祈るのだ。「子を産む」ということに対して、誰しもさまざまな想いをもって挑んでいるのだろう。たくさんの迷いや不安を感じてきたなかで、それでも「愛しか見つからないで」と祈るこの歌は、とてもうつくしくて、光のように愛が満ちている。
わたしも自分の子には、どうか百パーセント望まれて生まれてきたのだと信じてほしい。
わたし自身日々さまざまな感情に揺さぶられながらまだ幼い子どもだちを育てるなかで、この連作を読めてよかったと思った。

アサガオ/あきやま

あきやまさんの連作は、たいへん色気がある。そして、それだけではない。いきなりラストシーンの話になるが、三十首目を読んでわたしは震えあがった。こわい。短歌の連作でここまでこわいと思ったのは初めてだった。
正直なところ、性愛に関してうまく語れないので、一生懸命書いてはいるのですがこの連作の感想はいっそう拙くなっていることを先に謝罪しておきます。申し訳ございません……。

もう何も生けないはずの花器だった 生活だけを注いでいたのに

(「注いで」の「注」には「つ」とルビがふられている)
たんたんと生活していた主体が、花器に生活以外を注いでくれる相手に出会ってしまったのだろう。「花器」の使い方がまた絶妙で、以降を読んでいくと「これはあれを表しているのでは……」と思わせるのである。

帆のように揺れる姿は古めいた船を確かに導いている

序盤から中盤にかけて性愛のシーンが描かれるのだが、直接的な単語をなにひとつ使わず比喩を駆使して幻想的に描写されていて圧巻である。海を想起する言葉が多く使われている。また「東京の一室」「枷」「湿り気を帯びたマッチ」「つみびと」「傷」など互いが互いの囚人であることが示されていて印象的だった。
これは全体を通して思ったのだが、ひとりの視点ではなく、相聞歌となっているように感じた。
前述のとおりうまく語れないため、一連のシーンのなかで一番好きな帆の歌を引いた。

安全な場所へと帰る人だから綻びとして痕を残した

相手に家庭があることがうかがえる。残した痕とはどのようなものなのだろうか。たとえば衣服にできる綻びはわずかでも意外と目につくものである。主体はいっそばれてもいいと思っているのだろうか。

折り返しの十五首目からは引き返せない「荊の道」へと進み、どこか歪な独占欲が語られる。「復元」や「シャッター」「画角」などの用語が薄闇のなかのまぶしさを感じさせる。

やえばの字、矢笑歯と誤変換をする だらしないほど射抜かれている

ぞっとした一首。「やえば」を「矢笑歯」と誤変換することがあるだろうか? スマホでもパソコンでも試してみたが、到底変換されそうにない。それだけに強烈なインパクトがある。よほど変換機能が弱い機体を使っているのか、「矢笑歯」はたとえばよく変換する名前などに近いものなのか。そもそも「やえば」という言葉を使おうとするのはどんな状況なのだろうか。
この歌のおそろしさはまだ終わらない。下句の「だらしないほど射抜かれている」。すごい言葉だと思った。相手のこと以外はどうでもよくなっている、主体の狂信的な愛を感じた。そしてここに「矢笑歯」の「矢」がかかってくる。誤変換を通して主体は相手への愛と傷の深さを自覚したのではないだろうか。

このあとも一首ごとに語りたい歌が続く。主体はひとり身かとも思ったのだが、二十七首目に「嘘を互いに持ち帰る」とあるため、主体にも家庭があることがうかがえる。そうすると一首目や、二首目「発音をされなくなった」、十八首目「未使用の容量」などの歌から家庭を持ちながらも孤独を抱えているように思えてくる。
さて、衝撃のラストシーンへ向かいたいと思う。

外来の種だと分かる 電話越しの生活音を拾い集めて

問題の三十首目である。「外来の種」! この連作に置かれたこの言葉の意味を考えると、本当におそろしい気持ちになる。
先ほども触れたが、わたしはこの連作を互いに家庭がある男女の不倫のイメージで読んだ。そして主体が相手に電話を掛けている状況を想像した。相手側にはそばに家族がいて、ばれないように当たり障りのない会話をしながら主体は「電話越しの生活音」、つまり家庭の様子に耳を傾けている。そして自分が「外来の種」だと自覚する。
ここで連作のタイトルに注目してみたい。「アサガオ」。「アサガオ 外来種」で調べてみると、オオバアメリカアサガオというものが出てきた。アサガオといえば蔦がどこまでも伸びて絡まっているものを見かけることがあるが、この外来種は「繁殖力が強く生態系に悪影響を与える」のだそうだ。
自分が外来の種だと自覚した主体は、そのうち相手の家庭におそろしい影響を与えるのかもしれない。
もうひとつ、相手の配偶者こそが「外来の種」だと把握したのだとしたらどうだろう。自分こそが真のアサガオだと、外来の種である相手の配偶者を駆除しようと考えるかもしれない。これはこれでおそろしい。
別のパターンでも読んでみたい。ひとつ前には「疑い」の歌が置かれている。主体や相手の配偶者が浮気を疑って、こっそりとそのスマホから浮気相手に電話を掛ける。無言電話のなかで耳を澄ませて、「こいつはわたしたちに悪影響を与える外来の種だ」と把握する。
どう転んでもこわいのである。

あきやまさんの連作に関しては、ぜひいろんな方の解釈を聞いてみたいと思った。言葉の贅を尽くした三十首の歌に読んだ者の想像力は刺激され、さまざまな物語が展開されるだろう。

五十薔薇

web上の短歌投稿サイト「うたの日」で各々首席を取った五十首が収載されている。特に好きな歌を二首ずつ引く。

散り際のうつくしい葉よ我々も最期は服を着たまま燃える/長井めも
芽キャベツの秘める正しき断面よ我ら設計されたるいのち/同

感情に名のあることをひとつずつ知り四歳は「かなしい」と云う/カラスノ
閉架式書庫へ潜ってゆくようにわたしと出会いなおす夜がある/同

また夫婦だけに戻った航海をゆるり漕ぎ出すシチューの木べら/あきやま
滅亡の日は近づいてオムライスの上にずいぶん雑な地上絵/同

自選十首

各々がさまざまな媒体から選んだ歌が並べられている。一番好きな歌を一首ずつ引く。

透明な手紙をいつも持っていてときどきしろいポストをさがす/長井めも

長井さんの三首目『「ゲリラ花火 多摩川」~』と、五首目「画面には~」は『祭の跡に』の連作「助走」から選ばれている。わたしはこの連作がすごく好きだ。この二首に惹かれて「助走」を読んだことがない方はぜひ読んでください。

詠草、と呼べばわたしのかなしみもいつか花野をなすための苗/カラスノ

花を摘むしぐさで付箋をひとつずつ取って捨てずにまた使う母/あきやま

エッセイ、一首互評、田端会議

こちらも楽しみにしていたエッセイ(dominaさんのイラストがめちゃくちゃかわいい! 苗のスペースで語られていたカラスノさんのエッセイのお三方のイラスト、かわいすぎる)、一首互評(今回は評者が好きな歌を選んだそう。内容はもとよりデザインもすごく好きだった)、田端会議(お互いの連作について語られていてとても楽しい)。短歌以外のコンテンツも盛りだくさんで存分に楽しませていただいた。

今回もめいっぱい充実している歌集でした。また第一歌集も読み返したりしつつ、今後の苗の活動も楽しみにしております!

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