増田信吾+大坪克亘「それは本当に必要か。」

雪の日、改めて建築を問う。
建築、それは多義的なもので何をどう理解していいのかわからない。
一人一人の建築感があまりにも違いすぎる。ゆえに展示と言われても何をどう見ればよいのかわからない。今日は突き放された。自分との距離感、展示、建築。枠を捉えるどころか世界が狭まっていくような感覚。
それはディテールなのだろうか。いやこれは細部ではない。世界が思った以上に狭い。そんな建築の世界。

日本のコンテクストとしての増田信吾+大坪克亘。それはきっと藤本壮介や妹島和世に通じる"あれ"である。明らかに意識された壁の絵、模型、どれだけの意味があるのか宙吊りにされた模型の軽さ、浮遊。不思議なスケール感を持った模型たち。どこまでが彼らの建築スタイルで信念なのだろうか。

建築の狭さについて
建築の狭さ。それは建築家自身の目である。ここでの追求はなんであろうか。記録でもなく、新たなスタイルでもなく、マテリアルでもない。
彼にとって大義名分はどうでもよい、もう少し内側の世界。彼らは遊ぶ。階段と遊び、カーテンと遊び、引き戸と遊ぶ。スケールをバラつかせ不思議な日常を演出する。それは若手と言われる彼らが建築の世界で成功するための戦略なのだろうか。

このスケールで立ち上がる意図とはなんであろうか。取り乱す不思議な世界感。幻覚な建築思想。階段模型と現実の階段が意識的に並べられた屋外空間。リンクするもの、拒むもの。建築模型とは一体。
何はともあれ彼らのアイディアは面白く見せ方がうまい、そしてなにより器用である。
それはファッション業界のデコン、オフホワイトのオーバーサイズのようである。とすれはやはり日本の建築は面白いと言えるのか。
デコンを表現する形としてアイゼンマンから経由するのではなくではなく建築出身のファッションデザイナー、ヴァージルアブローを経由する。
もし日本独自のデコンの形として彼らを捉えるのであればザハのプロジェクトを破壊した日本という国に別の光が当てられているのかもしれない。というと期待しすぎだろうか。何にせよこれは新しい建築の可能性である。震災を経験した世代のデコンと世界のデコン。
そして、妹島、藤本とは異なる建築。妹島、藤本は他に気づかれないよう自らの建築をより広く拡大し影響力のあるものを作ろうとしたし、そのため時に激しく反復させたりもした。それはザハやBIGのようなスーパースターと一戦交える覚悟のようなものだったのかもしれない。大胆な構想や造形はここにはない。にも関わらずモニュメント建築として機能する。

彼らの類似点といえばここなのだろう。

しかしファッションとしてのオーバーサイズ。その流行期間はものすごく短かった。残ったのはカリスマとしてのヴァージルアブロー、その人だった。つまりデコンとはそういう意味なのである。つまり彼らの建築の姿は今までの建築以上に短命なものになる可能性がある。僕の直感で言えばかなりの確率で、である。そして解体されたそこから立ち上がるのはスターアーキテクト増田信吾+大坪克亘であろうか。それもきっと異なる。まだ彼らには部品が足りない。あと2つは最低でも必要になる。

増田信吾+大坪克亘。二人の建築はこの”展示”からでは空間に対する意識というのはものすごく断片的でむしろこの場の重要性を感じることはできない。ある壁は自分たちのアトリエのようであるし、巨大な模型小さな建物という距離感で置かれるものはある種のインスタレーションのようである。そしてやけに小さい、周辺模型の中にちょこんと置かれた建築模型はある説明書のように扱われている。流れというものではなくこの断片的ななにか、その展示に対して理解することは難しい。つまりこの展示は本当に必要か?と問うてみたくなるのである。そして「それは本当に必要か。」のそれとは一体なんのことなのかと。
そのそれが"建築"であったとするならば、、、

少しどきっとする展示であった。

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