書くと言うこと
「書くと言うこと」
それは文字を連ねること。
それは綴ると言うこと。
したためると言うこと。
心の有り様を留置くと言うこと。
言霊を吹き込むと言うこと。
私なりに考えてみた。奇をてらわず出てくる想いに素直に向き合ってみた。
物心ついた時から何だか「それ」を知っていた気がするし、「答えもわかっている」と思っている。
ただ、この世に生まれてからは少しそれを忘れてしまったので、思い出すために何だか「書くと言うこと」を色々とやっているのかもしれない。そう、色々と。書きなぐる場所を変えながら。
「手紙」も「交換日記」も「ファンレター」も「ラブレター」も書いてきた。趣向を変えて漫画の「セリフ」もそうだった。学校生活では「チェーン・レター」なんかも流行っていたけど、あれがなんの意味をもたらしたのかはよく覚えていない。「不幸の手紙」はドラえもんから抜粋して真似したような思い出がある。
好きな歌謡曲の歌詞を狂ったように「写経」していた時期もある。お陰様でその曲や歌詞のワンフレーズをどこかで目にしただけで全歌詞が芋づる式に出てくる。
「挨拶状」「お礼状」「年賀状」、季節が変わる度にしたためる日本の良い文化も見逃すことはできない。
思春期には親へ「抗議文」も書いたことがある。悲しい手紙だったのでもう二度とそんなものは書いてはいけない。
「読書感想文」「短編小説」「詩」「小説」「小論文」、時には書かなくても良い「供述書」「調書」等を記す時も、人によってはあるだろう。反省と言う意味では、記さなければいけないものだろう。しかしながら書かなければいけない場面にはなるべく遭遇してはならないと思う。
今のこの時代、誰に頼まれた訳でもなく人は皆「ブログ」を書いている。稼ぎの有無もあるけれど、ブログを書かなければ生きていけない訳ではないのに人は皆、夢中になって書いている。
もっと細かく「刻んで書く」のがTwitterだ。1日に何度も何度も想いのたけを刻んで記している。まるで呼吸をするように。
そう考えてみると、そうしなければ生きていけない生き物の様な気もしないではない。
徒然なるままに人は古から筆をしたためてきたのだ。
私自身も「3000文字チャレンジ」を何度か書かせて頂いた。ほんの3回だけだ。誰に頼まれた訳でもないが参加してみたかった。書けそうなお題があったので、そこに身を投じてみた。
結論から言うと「歪んだ想いが整った」。
何か長年鬱積した想いを吐き出しながら整える事ができた事で自分自身が救われたようだった。
今思うと崇高な儀式だったような気がしてならない。それはある意味「禊」に近いのかもしれない。
そこへ見知らぬ人達が目に触れ、思いがけず読んでくれて、あろう事か感想を頂いた。
吐き出した想いに、自分以外の他人までもが命を吹き込んでくれたような気がした。
身の置き場のなかった想いが意味を成し、浄化されたような気がしたのだ。
参加したお題は「マンガ」「電車」「写真」。
改めてその3作を読み返してみたが、お題を借りて母への想い、離婚した父への想い、自分の夢、を凝縮させていた。
喧嘩ばかりでうまくいかない母との関係をどのように考え・捉えて着地点を見つけるか、永きに渡って抱きかかえて持て余していた。人生に不在だった父の存在についても同様であった。
チャレンジは、複雑に絡み合って解き放つ事のできなかった難問に解決の道筋を立てるが如く、スルスルと糸を扱いてまるで膿を出すような作業だった。
その様な表現は一切してはいないのだが改めて読み返すとそこで一旦、人生のケリが付いたのだと思う。書きながら人生の帰路の途中で一旦ケリをつけたのだと思う。
溜まり続けた想いに名前をつけて住所を決めて大切にしまっておける収納場所を提供できたのだ。自分自身で。
書くまでは、そんな事ができるなんて微塵にも思っていなかった。いや、今の今まで気づかなかったと思う。書き上げた当初はただの達成感だけだったが、時間が経つに連れ、その作業がどれほど尊く崇高な作業だったのかと感心する。
「3000文字チャレンジ」には感謝しかない。
他のお題にも時間の許す限りチャレンジしてみたかった、いやチャレンジするつもりだったのだが、いかんせん時間がなかった。言い訳なのだが本当に時間がなかった。細切れの時間の中で新しいお題を目にしては自分の中では問うていた。「自分だったら何を書く?」。記憶の中でそのお題との接点を探しては収納場所の引き出しを開けて探していたのだが、きちんと断捨離されていなかった私の海馬には見当たらない事も多く、そのうちに忘れてしまう事が度々あった。
始まった当初からこの企画を愛して書き続けてきた方達がたくさん居て、とても楽しそうだった。それが羨ましかったので、自分にもできるかな、チャレンジしても良いのかなと不安に思いながら恐る恐る参加してみたが、一歩を踏み出して本当に良かったと思っている。
出されたお題の、他の人の作品を読んでみて、これまたこんな角度からこんな事が書けるのか、こんな切り口があったのか、と得るものも多く、本当に楽しかった。
例えが古くて申し訳ないが「ガラスの仮面」と言うマンガに主人公の北島マヤがオーディションで出されたお題で短く芝居を演じるシーンがある。北島マヤは1つのお題で何度も何度も切り口を変えて演じる事ができ、審査員たちを驚愕させるのだ。知る人ぞ知る、ファンには垂涎もののシーンだと思うのだが、とにかく北島マヤと言う平凡な少女の天才的な部分を見れるゾクゾクした、ワクワクした気持ちと「3000文字チャレンジ」の他者の作品をみることは以外にも重なった。
それの文章版だと考えて、私も北島マヤの様に1つのお題でいくつもいくつも書けるようでありたいと、密かに思っていた節もあると言うのが笑ってしまう。3回しか書いていないのに。
あまりにも時間がなくてチャレンジから日に日に脱落していった。他の人の作品を読む事すらできなくなっていった。自分のブログすら手を付けられない日々が続いて行ったが、書くことへの飽くなき想いは消えることはなかった。
その後は、頻度が少なくなってもブログを何とか書き続け、試行錯誤しながら「書きたい事」へのカテゴリを探し続け、今は別な場所へ移動でき「書くと言う事」を持続できているのはこのチャレンジの門をくぐった事に他ならない。
少し大袈裟なのかもしれないが、たった3回の参加であっても、確実に何か開眼し、重要な節目を頂いた人がここに存在していると伝えたい。
「書くと言うこと」
ありとあらゆる媒体に、生きてきた意味を問い正す。時にはその謎を整える為に身を投じる。
その時々の想いに名前をつける事、説明すると言う行為、枠を作ってあげること、カテゴリ分けをしてあげること、行き場のない想いに光を照らしてあげること、導いてあげるということ、救いあげるということ、昇華させてあげると言うこと、浄化させるということ、気持ちに寄り添うと言うこと、自分を大切にすると言うこと、
もっともっとたくさんあるだろう、その人それぞれに「書くことの意味」が何なのか、探し続ける旅がある。
両の手のひらにその理由を握りしめてこの世に生まれ、いつの間にか消えていったその理由を探すため、人は筆を握りペンを握りマウスを握りしめて命題を探している。いつも追いかけている。
それが私の「書くと言うこと」に他ならない。
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