ホロコーストとヒロシマ を読んで
松井岩根大将が中国を愛した方であったことを知り、数年かけて南京大虐殺を調べたら、中国に居たアメリカ人宣教師たちと中国人たちの捏造だったことを知って怒りと自分がキリスト教信仰をしていることにも一時期嫌気がさした。いまはイエスさまだけが救いなんだと改めて思わされている。
ヒロシマ、ナガサキは事実であるが、世界中でアメリカの残虐性を覆い隠すために虚構の南京大虐殺と慰安婦が叫ばれている。
『ホロコーストとヒロシマ』は虚構の南京大虐殺がジェノサイドだったとして書かれている。そしてアメリカが行っていたジェノサイドであった本土空襲はさらりとながしている。民間人を組織的に焼き殺していたヒットラーよりも残虐だったアメリカのことを書かないでヒロシマだけで十分ということなのだろうか。
P.169~170に南京事件の項目があるので著者の主張を以下に書き留めておきます。
旧日本軍の戦争犯罪のうち、公的場面でタブー化されてきたものの代表格は、一九三七年の南京事件であろう。
中国国民党政府の首都•南京攻略戦の中で日本軍が民間人や捕虜の大量殺害を行なった南京事件は、東京裁判で裁かれたものの、日本国内では事件そのものの存在をも否定する議論が後を絶たない。
当時の日本軍兵士の記懺や証言をはじめとして証拠の収集が進み、現在では、日本政府も「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」としているが、いまだに政権与党にすら車件の存在を否定しようとする勢力が存在する。たとえば自民党国際情報検討委員会委員長 (当時 )の原 m義昭議員は記者会見で、「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しょうとしている時にもかかわらず、 (中国が世界記憶遺産登録を )申請しようとするのは承服できない」と述べたが、原田議員はその後、安倍内閣で環境大臣を務めている。
天皇の戦争責任と同様、南京事件についても公的表現に対する法的禁止は存在せず、したがって「肯定派」であっても著作や論文の発表は可能であつ、通常の合理的手続きを踏めば、歴史学的に確認可能な「事実」にアクセスすることはできる。にもかかわらず、そうした研究上の成果は社会的に共有されず、一般書籍やインターネツトで流通する「情報」では「否定派」が圧倒しており、「肯定派」の主張はスティグマ化されているかのようですらある。
「大虐殺」を事実として前提した映像作品は、ドキュメンタリーであれ、ドラマであれ、映画であれ、テレビ番組であれ、国内では制作が困難であり、外国作品の日本公開も困難であり続けている。最近では大阪国際平和センター (「ピース大阪」 )の展示内容が「自虐的」であるとの批判を受け、リニュ—アル改装 (二〇ー五年 )の結果、南京事件関係の展示が撤去された。歴史教科書では 三〇年余にわたって記述がない時代の後、家永 三郎教科書裁判等もあって記述されるようになったが、 最近また教科書攻撃の標的の一つとなっている。仮に今、「大虐殺」を前提にした南京事件の特集が、テレビや映画やミュージアムや一般書などで企画され、それが広く予告されたとしたら、それが右派系の 団体やさらには保守党の政治たちの攻撃にあって潰されてしまうだろうことは容易に予測可能である。だから、そうした企画そのものがあらかじめ自粛されてしまうのである。
こうしたジャーナリズムの自主規制を破った最近の例として、日本テレビが放映したドキュメンタリー『南京事件 兵士たちの遺言』 (二〇一五年十月 )と「南京事件』 (二〇一八年五月 )は出色の作品であった。いずれも南京攻略戦に参加した元兵士たちの証言や陣中日誌の内容を当時の史実と突き合わせながら裏付けを取り、「否定派」の主張の矛盾を指摘、大量虐殺が事実であったことを明瞭に浮かび上がらせていた。それでもなお、これらの放映が深夜でしか可能でなく、また番組予告では「南京事件」の文字が伏せられざるをえなかったことは、「否定派」による監視と威嚇の効果が現存していることを示している。
まず著者は、南京虐殺の事実ではなく『否定派』の影響を強調しているだけですが、世界は全く逆で『肯定派』により事実を語る動画はアカウントごと削除されています。共産主義者たちは組織的な行動で言論弾圧をかけています。そして共産主義者たちは主義主張のために平気で嘘をつきます。
事実の確認こそが大事であり、言論の自由は守られるべきです。
南京事件の背景と上海で行われていた人道支援
では、はじめに南京事件の背景から学んでいきましょう。日本軍が南京に侵攻する事態になった事件を見ていきましょう。
1937年7月29日 中国の通州で朝鮮人、日本人220余名が世界史に残る残虐な
方法で殺害された事件が発生。
1937年8月 9日 大山勇夫 海軍大尉、斉藤一等兵殺害事件発生
1937年8月11日 日本側大山事件を受け、協定違反を注意し停戦区域の外へ
の撤兵を要求
1937年8月13日 第2次上海事変勃発、蒋介石の主力十個師団余が二十万の兵
力を集中し、五千余の日本海軍陸戦隊と十万余日本人(女
性・子供を含む)を全滅させようと企図した事件。
第2次上海事件で支那人はナチスから武器等の支援を受けただけでなく、軍事顧問団までを呼び寄せナチスと共闘していました。
上海で中国人難民30万人を救済していたフランス人ジャキノ神父に松井陸軍司令官と長谷川海軍司令官は神父の事業に賛意を表し、避難民の救済費として各1万円(兵士の給与が10円程度の時代)を寄贈した。
12月4日 松井方面軍司令官は、南京郊外の敵陣地奪取を決定
12月5日 南京安全区国際委員会のジョン・ラーベは、安全区から中国兵が引き上げるなら攻撃しないとの日本からの回答を得たので、マイナー・シール・ベイツ、シュペアリングと唐司令長官に安全区からの中国兵撤退を要請したが「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」と唐は回答した。ラーベ委員長は「そんなばかなことがあるか」と唐将軍への不満を日記に記し、またドイツ大使館書記官ローゼンも国民党軍が安全区のなかに隠れていることに怒っていると書いています。
中国国民党軍による難民銃殺
12月7日中国国民党軍は難民の暴動を恐れ怪しいものを銃殺していた。その数は100名に及びます。
中国国民党軍による堅壁清野作戦
皇軍は城門外で降伏を待っていた
日本軍が南京侵攻時、敵兵10万人が籠城していた。
中国国民党の降伏拒否の回答は毒ガス攻撃だった。
1937年12月12日20時、南京守備隊長の唐生智と1万5千人の主力部隊は下関の超大型フェリーボートで南京陥落前に逃亡したので中国兵は総崩れになった。唐生智守備隊長は中国軍の退却口となる挹江門に督戦隊を配備し、退却しようとする中国兵を背後から銃撃させた。逃げ惑う中国兵は、日本軍を恐れて軍服を脱ぎ捨て、市民から衣服を奪い、その混乱で多くの市民が殺された。死体は挹江門前に高く詰みあがった。日本軍の入城前におきたこと。
この日、ラーベ委員長宅を中国軍の龍大佐と周大佐が再訪し、そして「ここに避難させてもらえないか」と頼んだ。ラーベは良心の呵責(かしゃく)を覚えることなく、敵兵を自宅に匿った。
2日前の10日、重傷兵が安全地帯に入って来たのは「協定違反」だと息巻いていたラーベ委員長。安全地帯における負傷兵の存在が協定違反であったのであれば、安全地帯における五体満足な高級将校の存在は、一層重大な協定違反で、ラーベ委員長は安全区の中立性を破った戦時犯罪者だった。
南京占領当日
左写真:中山門外に整然と整列し、南京に入場せんとする富士井部隊。
右写真:中山路大通りを進む大野部隊。
南京は13日夜から翌14日夜までの、たった1日で陥落したことを伝えるニューヨークタイムズの記事です。
その日のうちに、日本軍は南京の中山門を突破し、城壁に囲まれた街の奥深くまで進み、国民政府本館、中央軍事学院、中心繁華街の一部を占拠した。
午後4時までに、1つの部隊は市内を北上し長江に向かっていたが、もう1つの部隊はすでに南京の北壁の外側、川沿いにある霞湾地区を占領した。
当時の様子を朝日新聞は次のように伝えています。「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」(1937年12月26日朝日新聞)
日本軍は12/14から良民証の発行作業を行い、
12/24までにほとんどの部隊が南京から出て、
残ったのは4000人の警備兵です。
日本軍は、日本軍の南京占領中に、子供を除く南京市民に善良な市民証明書を 16 万枚発行しました。
第一に、市民と市民を装った敵軍とを区別するため、第二に、人数に応じた食料を提供するためでした。
国民であれ捕虜であれ、餓死した人は一人もいなかった、それを日本軍は決して自慢しませんでした。
南京現地報道
日本軍の到着により、南京の秩序は回復されたと宣言
but declared that with the arrival of Japanese troops and order had been restored in Nanking.
上海発としてユーヨークタイムズは1月3日 次のような記事を書いている --- 南京の金陵大学に難民福祉委員会メンバーとして残留のアメリカ人(ベイツ)教授らは、便衣と成った中国軍大佐とその部隊所属兵6人を自分達が匿っていたのが見つかったことで非常に当惑している。実際、教授らは、その大佐を難民キャンプでの権威ある立場の二番目に据えていた。
中国軍の南京からの退却中に制服を脱いだ将校(士官)らは、大学の建物の一つに住んでいるところを発見された。 日本陸軍の捜索者が、6つのライフル、5つのリボルバー、取り外された機関銃と弾薬を建物に隠していることを発見した後、彼らは自分らの身元を白状した。
アメリカ人や他の外国人の前で、元中国人将校は南京での略奪行為、またある夜には少女たちを難民キャンプから暗闇に引きずり込んだことを告白したが、翌日にはその襲撃を日本兵の所為にした。 将校であった者達は逮捕、戒厳令下で処罰され、おそらく処刑されるであろう。
安全区を担当する天谷支隊は1938年2月4日を期して、難民を帰宅させるべく安全区と呼ばれた『難民収容所』からの退去を通告した。国際委員会はこれを自らの存立基盤を脅かす措置として猛反撥し、テロ行為による妨害を実行した。日本軍はこの時、国際委員会と気脈を通じる一味を連続逮捕した。難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。
太平洋戦争後、アメリカは戦後、南京事件で松井石根大将、谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田毅少尉の5名を誣告し死刑にした。
松井大将が記録が東京大空襲で焼かれて新聞記事を証拠として提出するも却下し、向井少尉、野田少尉の誣告は100人斬り新聞記事だけの証拠で死刑判決という滅茶苦茶な裁判であった。
南京裁判で有罪になった谷中将は12/21までしか南京にいませんでしたが、滞在中の約10日間に19万人を虐殺した責任を問われ、処刑されています。
谷中将の罪は、冤罪であることが明らかになっています。 その根拠は、 裁判で認められた「大虐殺」の期間である37年12月12日ごろから21日までの約10日の間、第六師団は南京にほとんどいなかったという事実です。
具体的には、37年12月10日、第六師団は、国民党軍が守る南京城の中華門を攻撃。13日に陥落させたものの、部隊のほとんどは中華門の外に駐留しました。
その後、同師団は南京から約60キロ離れた蕪湖(現・安徽省)の警備を命じられ、15日より同地に向けて順次出発。一方、師団長の谷中将は、南京に留まり、17日の松井石根大将の入城式や、18日の日本陸海軍の合同慰霊祭などに参加した後、21日に部隊が待つ蕪湖に出発しました。
つまり、第六師団の兵士たちは、南京にほんの2、3日しかおらず、谷中将自身も約1週間しか滞在していなかったのです。