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[日記] 2024.1.13 山口蓬春記念館 #今年学びたいこと

三ヶ丘のバス停を降りて、徒歩数分

 四十代も半ばとなり、そろそろ晴耕雨読の熟語を本格的になぞる暮らしを心がけている。晴れの日は農福連携に、雨の日は読書普及に集注すべく、密かに家探し中なのだ。できれば家で人も耕せるのが望ましいから、畑はもちろんのこと、書庫と茶室があればと考えている。

 このような妄想を抱きながら、過日は山口蓬春邸に家人と足を運んだ。春子夫人も茶道を教えていたため、たしかな茶室もあるのだが、何よりそこが蓬春の仕事場からやや離れていた点にハッとさせられた。これまで茶室で稽古はもちろん、飲み会や読書会をしてきたので、無意識に私の仕事場は茶室なのだろうとそこはかとなくイメージしていたのである。

 さらに、仕事場の奥には書庫があり、天井までずらりと良書が並べられてあった。今の私の蔵書数であれば、おそらく収まるであろう。書庫にも窓があり、本が未だに死んでいないように映る。やはり木漏れ日は、人だけでなく本も耕すのか。故人から預かっている蔵書も少なくないが、このような本棚であれば、次世代にも吾が國の智慧を託せる日が来るような氣もする。

庭から書庫を眺めた一葉

 しかし、野菜を描かせたら蓬春の右にでる者はいないのではなかろうか。私はあのような美しく、美味しそうな「茄子」を視たことがない(撮影不可のため、お見せできないのが残念)。無論、小泉淳作の「蕪」もたしかであるが、文字通り何処か「無」を感じさせ、私にはどうも禅が過ぎる。たしかに古来、藝術と悟りは蜜月だが、どうせ悟るなら樂しく、かつ美味しく悟った方がよいであろう。

茶室から愛でれた紅色

 今年學びたいことは、このような藝術家たちの空間美になる。もちろん空間のなかに当時の時間も漂っており、それを含めて昔の家から教えを請いたいと考えている。吾が國もすっかり西欧化してしまい、所謂黄金律に則って建築がなされているけれども、元来はカネワリといって独自の美に対する寸法を私たちは有していた。法隆寺がカネワリで建てられた最初の建造物と云われているから、その歴史も比較的永い。

 カネワリが失われたのは、やはりここ数十年であろう。今や大工もその言葉すら識らぬ者が多い。ただ一部の日本家屋にはカネが微かに残っている。特に画家はカネで絵を視ていたから、家にも絶対美を舞わせたのではと私は考える。計算方法は異なれど、黄金律とカネワリの絶対美はほぼ一致する。ただカネワリの場合は、三分がかりと云って、あえて絶対美から幾ミリか物を外すのを秘伝としているのだ。私はここに色氣を感じる。

灯台、鳥居、隱れ富士

 帰路、逗子駅と向かう途中、車窓から灯台と鳥居と富士が重なる景色があり、ちょうどバスが停車した。窓枠に納まったその景色はたまたまカネに乗っていたように私には映った。家人も一眼でその偶然を撮っていた。後ろには富士があり、その山頂は雲のなかに隱れている。山高月遅上。辰年だけに今は伏龍し、富士とともに隱れては如何であろうか。世にでられるのであれば、富士の更待月のように遅ければ遅いほど佳い。

いつも心温まるサポートをまことにありがとうございます。 頂戴しましたサポートは、農福連携ならびに読書文化の普及に使わせていただいています。