「弱さくん」の召喚。君の中の「弱さ」と良き友人になろう。彼も、君の心強い友になってくれる。少年ジャンプの信念。

 「わたしは弱い人間だ」

と、思っているそこのキミ。ちょっとの時間付き合ってみないか?今から何を話すかっていうと、僕自身の「弱さ」に対しての向き合い方を、具体的に宣言していこうと思ってる。この「求められていない自分語り」という禁断のジャンルを恥ずかしながら展開しようかと思っている。相当つまんなそうな予感はびんびんするけど、でもまぁキミが自分のことを、特別に弱い、とおもっているなら、ここにもいるそんなやつが、なんとかしようと足掻いている一つの例くらいにはなると思う。それ以上の価値はぜんぜん保証できないよ。

 そして「わたし、結構強い人間だと思う。」
というそこの貴方。凄い。眩しい。かっくいい。でもごめん、この先は読まない方がいい。
僕は強い人に憧れている。憧れはするけど、実は、苦手なタイプでさ。強さも弱さもどちらも必ず持っているのが人間だけど、そのバランスがお互いにある程度離れると、どうしても相容れなくなってくる。こちとら、弱さに関しては自信を持っているからね。人間であり、かつ強いと自負するキミは正しい。正しいからこそ、僕たちの居場所はなくなる。僕らの主義主張なんて聞かされてもキミはよくて「ふーん」か、だいたい「イラッ」で終わるだろう。そしてそれも概ね正しい。イライラさせても悪いから、そこはそっとしておいてくれないか。まぁでも読んでくれたら、嬉しいよ。


 さて、これまで30余年生きてきて未だに鬱病をこじらせているメンヘラ男の、これは宣言だ。まぁ今から「おれはこれをやる!海賊王におれはなる!」的なことを言うつもりなんだけど、別に今は躁状態ではないよ。その証拠に、「おそらく意志を貫けず、自分に負けるだろう。だがそれでいい」と諦めているからだ。弱すぎる。自分で自分に殺意が湧k…いや待って、もうちょっと辛抱してくれ。これはそういう話だ。「意志を貫く」ということに悉く、尽く失敗し、自爆し、病み、裏切り、「意志力ゼロ」になった男の『意志ゼロ出発の冒険譚』なんだ。
意志というのは自分への信頼とニアリーイコールだ。信頼というのはカンタンに壊れて築くのはフル難易度、というのは定説だが、それは自分に対しての信頼も同じで、なくなると、何にもできなくなる。でも、何にもできないと思えても、身体は生命活動を維持する。すると、命ってのはすごくうまくできてて、生きてると、時間がたつと、0.1㍉ずつだろうと、何かしようという気持ちが湧いてくるんだ。これはこれで、命の大冒険だと思うんだ。そして僕は、この大冒険を1ヶ月ほど前からスタートさせているんだ。君よ、何かがゼロになったことはあるだろうか?そしたら、そのままで大丈夫。君の命は、君の力になってくれる。君が君自身を信頼できなくても、キミの命はそんなことどこ吹く風で君の味方なんだ。でもほんと、ゼロにしてほしいのはカロリーくらいだよねー


 この冒険を簡潔にプレゼンするなら、

”何もかにもダメだった男が、己の弱さに打ち勝つ成功物語-男はその過程、何を見て何を学んだのかー”

お、なるほどいいねぇ、と思ってくれた方、またで申し訳ないがブラウザバックしてくれた方がお互いのためかもしれない。何度もすまない。僕は最初から「打ち勝つ」ことや「成功」を目的としなかった。疲れてしまうからだ。「負け」や「失敗」を恐れないでいられる、もしくは正しく恐れられるのは、強いヤツの能力だ。僕はまた別のやり方を模索している。いわゆるジャンプ的な信念(友情、努力、勝利)を美徳とする人にとってはイライラさせる内容になりかねないので、こうして注意を促している。すまん。

いまのところ僕はこういう見出しにしたいと思っている。

”自分で自分をダメにした男が、弱さを[良き友人]として、生涯の友とした日常の物語”

おっ友情は入ってたな。これに少しでも興味を持ってくれた君は、続きを読み進めても大丈夫かもしれない。レペゼン弱者と言っても過言ではない僕は、僕や、君の「弱さ」の良き友人でありたいという生涯の夢を携えている。たぶん、僕はこれまで自分の弱さを「弱いからこそいまの自分がいるし、弱さも必要だよ」とかどーとかさも理解者のような顔をしながら、いつまでも消えてくれない自分の弱さを、心底憎んでいた。死んで欲しいと思っていた。弱さが自分を支配していた日なんかは、心の底から死にたいと思った。それでも死ななかったのは、弱さじゃなくて「やっぱり希望ってやつも消えることはなかった」からだ。

"死にたみ"なんてのは大なり小なり誰もが持ってるものだけど、なんでいま僕たちが生きているかっていうと、現状「キボウ」の総量が「ゼツボウ」を上回っているからだと思う。ゼツボウを見ていた方が心地よい時もあるし、そういう作品も素晴らしいけど、それにしたって、キボウの存在を否定することはできない。君が生きている限りは。んでキボウってのは自分の未来に期待するってことなんだけど、未来なんてなんの保証もないのに、人間は本能的にはそういうふうにできてるらしい。自殺ってのは、僕らの最後の権利、切り札としてギリギリまで取っておく方がいいな。死ぬことと死にたいことは違くて、死にたいという気持ちは普遍的なものだから、カジュアルに死にたいと口にして差し支えない。君が死にたければ、大いに死にたいと言えばいい。だが、生きろよな。


 さて、ここからは、この謎の語りがさらにつまらなくなっていくと思うので覚悟してくれ。こんな語り口なのは、そうやって書いてる方が自分が楽しいからなんだ。ここで一度白状すると、君に向かって話しているようで全部自分のためにこれは書いてるんだ。すまない。

今僕がやっていることを挙げる。

▼ケトジェニックダイエット(糖質制限ダイエット)
▼リハビリ、ストレッチ、筋トレ
▼コンプレックスと向き合う
▼note
▼瞑想
▼日記
▼本を読む

・お金を稼ぐ競争、他人よりも幸せに生きる競争から距離を置く。
・心の「ほんの小さな声」を聞く。

っておーい普通のことかーい!珍しいこと何もしてへんやんけ!セルフツッコミをいれたくなる。物哀しい。すまない。これが僕の大冒険の全容だ。一つ一つ書いてみよう。

**
▼ケトジェニックダイエット(糖質制限ダイエット)**
僕は去年の6月に怪我をし、去年の8月に手術をした。右膝の前十字靭帯と半月板をどっちもやっちゃった怪我で、医者から8ヶ月は踊れませんと言われた。それでも、痛くないように体を動かしながら振付の仕事や創作を続けていた。ダンスの自主公演を予定していたので、振付を進め、仲間に恵まれたこともあって創作はスムーズかつ確かな手応えとともに進んでいたけれど、コロナの影響で無期限中止を決断せざるを得なくなり、今年8月に考えていたスタジオパフォーマンスも企画段階でお蔵入りとなった。

その時は、自分の作品がお披露目の機会を失った悲しさというのは、意外にもなかったんだけど、それならばとコロナに立ち向かう医師団へのyellを込めた映像作品を作っているときに頭がおかしくなった。「発信することが容易くなって、意欲と才能ある方々がそぞろとコンテンツを出し続ける今の世の中、この、時代を変えるほどの未曾有の危機の中で、国への信頼感も社会基盤もグラグラと揺れる中で、浅はかで無知蒙昧な自分が、生半可な作品でyellなどと、ましてや基金を募ることは正しいのだろうか。掲げた旗の重みを自分で理解してるのか。全くもって何を発信すればいいのかわからない」などと意味不明な供述をして精神を病んだ。わざとムズカシそうに書いたんだ。なんてことはない、創り育てるという姿勢から逃げただけだ。
怪我でダンスを休業して、身体はどんどんダンサーの質から退化していった。それでもまた創作をすることで、そしてそれを発表することで自分の居場所を手に入れようとしていたな。その頃の胸中を思い出すと、なんとなく「逆転」「反撃」のような心持ちがあった。一体何と戦っていたんだろう。あの頃の仲間たちばかりが目に浮かぶ。

 まぁまぁそんな感じで、とはいえおそらく結構な精神的ダメージを受けた。僕は起きてる時にいつもの焦燥感や不安感や対人恐怖感を上手に落ち着かせることができなくなり、身体のダルけや吐き気や震えが出るようになり、これまでしなかった行動にでた。それは酒だ。いやーありきたりだね。ってか最悪だね。この辺を書くのはツライ。酔うことでそのツライ身体をごまかした。すごいごまかせるんだよお酒って、すごいね。1日に多くて2ℓは飲んでいたと思う。酩酊して眠り、起きては酩酊して寝た。んで気づくと、10キロ太っていた。しかも、お腹だけが。こ、これは・・・目の前の鏡を見るとそこには・・・まごうことなき「チビハゲデブタンソクメガネメンヘラおじさん」という最強なシアガリの生き物が出来上がっていたのである。ホラーだ。数え役満。ロイヤルストレートフラッシュである。おい言い過ぎだぞやめろ。それを見て初めて「あ、これ鏡見るのがすげーストレスになってて鬱加速させてるわ」とやっと気付いたんだ。
というわけで、そのへんから、ようやく「今何がストレスなのか」にいっこいっこ自覚的になった。人生初のダイエットをスタートさせた。糖質制限やフィットネスは今大流行中なので、ケトジェニックという言葉を聞いたことある人もいるかな。僕は初めて知った。色々ネットで調べた結果(youtubeの動画100個は見た、マジで)このダイエットを選択した。簡単に言うと、糖質(グルコース)を限りなくカットして、代わりに脂肪(ケトン体)をエネルギー源とする身体(ケトーシス)に体質を変えるための食事制限のこと。糖を抜くとメンタルにもいいらしい(今のところその効果は感じないけど)。「お菓子断ち」は実はちょっと前からやっていたんだけど、メンタルに効果は感じられてないな・・んで、ケトジェニックは今10日ほどたっているが、4日目の深夜に発狂してカップラーメンを食べてしまったこと以外は、順調に続いている。半年くらいで10キロ痩せたらいーなーくらいの気持ちで続けている。

▼リハビリ、ストレッチ、筋トレ
僕はBM1数値普通だが筋肉が少なく脂肪が多い体型なので、食事制限だけでは痩せにくく筋トレは必須らしい。昔体脂肪率が8%とかだったのを思い出すと涙がちょちょぎれそうになるが、加齢と怪我と飲酒で全て自分のせいなのだからしょうがない。
怪我のリハビリやストレッチも欠かせない。もう医者に言われた8ヶ月は過ぎ去った。今動かしても俄然膝は痛いけど、もう、こういう膝と一生付き合っていくんだなという諦めがついたので、ガシガシとリハビリを再開した。これまでずっと踊ったり作ったりすることしか人生のなかでしてこなかった。今のこの「踊れない身体」は精神的によくない。多分それもあって、今は心が踊りに向こうとしない。ダンスの先生なんてしていたけど、今は先生なんて名乗れる状態じゃない。職場のご好意で、踊りの仕事を休ませてもらったので、また踊りが楽しくなるように、見失ってしまった「踊り」を再発見できるだろうかと、キボウを抱いている。

▼コンプレックスと向き合う
上にも書いたが、自分の身体を鏡で見たとき、そしてその瞬間の心の動きに気付いた時、かなりの頻度で「自分は自分の身体のことを考えた瞬間ダメージを受けている」ということに気付いた。体型の他にも、僕には身体的コンプレックスがたくさんある。そのうち、どうしようもないものを諦めること、そしてどうにかできる可能性のあるものを、どうにかしてみようと思った。これも切実な思いだ。

▼note
今まさに書いているこれだ。これをしようと思った理由はすごくネガティブなもので、それは「ひとりで出来る」から。そりゃ、ひとりでできることなんかたかが知れてて、信頼できる仲間と何かやったほうが楽しいし捗るしパワーも出るんだけど、色々あって、とうとう、人と一緒に何か仕事することが恐怖というところにまできてしまった。ずっとなくならないと思っていた表現したい欲求もどっかにいってしまっていた。それでも、しばらくすると、「何かを表現したい」という欲求が戻ってくるのを感じたんだ。うわーおかえりーって思ったよ。正月にも帰ってこない息子が玄関前に立ってたみたいな気持ちだ(なぜ母目線なんだ)。たぶんこれは人間に与えられた、普遍の欲求なんだと思う。石器時代だって人は石壁に絵を描いた。無くなっても絶望しなくていい。
だけど、僕にはどうしても、また人と何かをする勇気がなかった。僕がやってきた「ダンスを振付ける」というのは、踊ってくれる人間がいて初めて成立する。人を巻き込むにはまだまだ時間が必要そうだ。なので踊りは諦めて、「言葉」で何かしようと思うようになった。もともと僕は、ノンバーバルもバーバルも大好きだ。"人と"何かをすることはちょっと諦めて、誰にも迷惑をかけず、ひとりで出来る言葉での表現をしたいと思った時に、最適だったのがこのツールだった。そして、さっき仲間と何かやる方が絶対いいって言ったけど、孤独という「ジャンル」もまた既に確立されている。そんな先達に感謝して、ひとりでやって行こうと思ってる。いつか人と関わるためだ。

noteのいいとこは、まず会社の雰囲気が好きだっていうのと、TwitterやInstagramのタイムラインよりも「遅い」ことが良いとこだ。遅いっていうのは、読み手に「手間がかかる」ってこと。Twitterにこのnoteの記事のリンクを貼っても、読む人はそのリンクを「1回クリック」することが必要になる。今はこの「ワンクリック」をめんどくさがる人が多い。それで良い。こんなよくわからないヤツが書いてるナゾの文章を、「ワンクリ」してまで読もうという、奇特変人の君にだけ届けばいいんだ。タイムラインのあの速さの中に身を投じるのは、ちょっと今のところは、やめておこう。

▼瞑想
何度か過去にも試したが、もれなく三日坊主で終わってきた。「自分は何にも続かないなぁ」と思うことがまた自分にとってストレスになる。だから、毎日続けよう!みたいな意気込みは全然込めないことにした。すると、なぜか楽しくて続いている。過去と何が違うのかわからないが、なぜか楽しめている。色々と切り捨てたからかもしれない。超絶ニート暇人だからかも知れない。いい感じの窓際があるからかもしれない。特に効用を期待していないからかもしれない。まぁ暇だからだな。

瞑想をしていると、よく過去を思い出す。前に書いた美容院でのこととか、この前なんかは、卒業してからこのかたたったの一度も思い出したことのなかった友人の顔が浮かんできて、「あーオマエそういやいたなぁ!!」とひとりビックリしてしまった。自分は今、初めて本当に自分の内面と向き合っているのかもしれないと思った。それだけでアツイ。楽しいんだ。ってか瞑想ってそういうことじゃないけど。
そして瞑想はnoteや読書と相性が良い。瞑想した後は心がすこし素直になっていて、本から文字を吸収する力が増えている。それにアイデアも出る。必死に大量のインプットをしている時期(四六時中何か読んだり聞いたり)、アウトプットしようとしても借り物みたいな表現しか出てこなくて落ち込んでいた。いま、ぼーっと瞑想していると、たまに「あ、こんなん書きたいなー」とか、「元気になったらこうしたいなー」というアイデアが浮かぶことがある。それを、メモしたい気持ちをこらえて瞑想を続けて、終わってから覚えていたらメモしておく。おっと、期待してはいけない。何か益があると期待しないほうがいいんだ。だいたいの時間は、呼吸に集中できず、あっちこっちに脳がとび、あぐらをしている右膝の痛みや、背筋を伸ばすことに躍起になって体をムズムズさせているだけだ。ただ、それでも終わったら「結構気持ちよかったな」と思えている。凄いよね。なんか、けっこう奇跡だなぁと思うんだ。

**
▼日記**
これもまた瞑想以上に「三日坊主のお供」だ。僕はけっこうメモ魔で、日々パッと思ったことなんかはスマホや付箋につける癖はついてるんだけど、いざ日記となるとダメだった。何もできなくなるとまぁストップして、そこからはもう続かなかった。今の日記もnoteやそのほかのこともそうならない可能性の方が低いと思うけど、安らかでいられるのは、「それでいいと思ってるから」かつ「誰にも迷惑をかけないから」だと思う。そして、だから多分続くと思う。
これも最近気付いたことだけど、僕はどうやら書く全ての文章を「自分をよく見せようと、あるいは悪いところを隠そうと書く」という悪癖があるみたいだ。そしてそれを深く深く嫌悪した。今までそういうのが嫌だと思ってたのは同族嫌悪だったのか。きも。まぁ今の文章はどっちかというとそういうカッコつけというか、流石に日記とは違う書き方をしているけど、僕の場合は、日々の日記すらそうしていたんだ。これを書いたら自分で自分を非難してしまうからこうやって書く、みたいに。まるで見えない誰かにバカにされたり非難されるのを酷く怖がってるみたいに。ほんとに思うよ。きも。自分の中に汚い部分と、それに潔癖に近い嫌悪感を持つ部分を、両方持ってるっていうのが、けっこう厄介で、社会で自分を生きにくくさせてる原因の一つな気がしてる。

でも今書いている日記は、読み返すとそういう書き方をしていないんだ何故か。というか思い返すと、よしまた日記を始めるぞ、と思った記憶もない。気付いたら、前に落としてたアプリで書きはじめてて、徐々に文章量が長くなっていた。これもまぁなぜ続いてるのかの真実は「他にやることがないから」だろうけど…ともかく、今こうして書いている、回復のためのいくつかの行動が、自分にとって、日記という形で整理したくなるほど、気持ちのいいことだったんだと思う。それっていいことじゃねぇか。マジか。
そんで、もちろん体調が悪くてできない日もあるけど、そういうことを日記に書いてるだけで、前と違って癒される。その理由も今思えば、前の日記は「誰かに非難される前に自分で自分を非難しておく」みたいな書き方をしてしまってたからだと思う。どんだけだよ。恥の多い人生を送ってきましたっていうひとは、すごい気にしてるんだよ人の目を。

▼本を読む
これは、いわゆる「勉強」だ。僕にとって字を読むことは、あまり娯楽性はなくて、インプットの意識が高くなる。僕ももれなく「スマホばかり見ている現代っ子」で、流れてくる情報を無自覚に大量摂取して頭がおかしくなったりしている。そうすると集中力がどんどん無くなっていく。より短く、より簡潔で、より刺激的なものを欲する情報家畜に育て上げられる。そのおかげで、立派に僕は「ずーっと同じ本を読む」とか「勉強に集中する」ことができなくなってしまった。鬱の時のあの全く情報を摂取できない感じと違って、少し元気になっても「アレ?集中できない、い、いつの間にスマホ持ってるまた・・・」という症状に悩んだ。
積ん読がみるみるたまった。本だけでなく見たいアニメも映画も、ゲームも、たまった。見る時間はあるのに。そして、これがまたストレスになるんだ。「おめぇは積ん読なんて誰もがやってることでストレスっておめぇ」と思うだろうけど、小さなストレスを大きく受容してしまうのが弱者代表わたしだ。面目無い。君もそういうところある?
人それぞれ何にストレスを受けるかも、その多寡も違う。大切なのは、他人なんてどうでもいいから、ゆっくり「自分にとってのそれ」を少なくしていく営みを、続けることだ。そんで、積ん読然り「やりかけのこと」っていうのは実はかなりのストレスを与えるから、気をつけた方がいい。一つのことを「やりきるか手放すか」を決めるのに1日分のエネルギーをかけたっていい。「一旦置いておく」は、じわりじわりと、ダメージを受けるからな。

という訳で、これも細々消化している。「歴史の勉強がしたい」とか「宗教の意味のわからなさを解消したい」とか、そういうのをゆっくり焦らず解消している。世の中には1日で本を読んでわかりやすくまとめてプレゼンしてお金を爆稼ぎするみたいな超人もいっぱいいるが、僕はゆっくり行く。ほら、他人と比べましたよいま。ねぇ、それやめよって思ってるのに、いやねぇ。

●ルール
これらはそれぞれ「できれば毎日やりたい」とか「たまにでいい」とか思いながらやっている。そして、毎日カレンダーに丸をつけている。
それも、ルールは適当でめちゃくちゃ難易度は低い。「今日は運動できた」らマル、「文章をちょっとかけた」らマル、それに加えて「公共料金の支払い」とか「ほっといた粗大ゴミを出すために電話をかける」「病院に行く」なんてできたらニジュウマルだ。
唯一、暴食を抑えられなかった日はバツと書いている。
しかも、上に書いたことの中で、今は「一個できたらマジその日オールオッケーよ。」としている。そうして負荷を、ゆっくりゆっくりとあげていくつもりだ。もうほんとに、ゆっくりとやっていくつもりだ。

漸進性過負荷の法則という筋肉の法則があって「筋肉は与えている負荷に慣れると同じ負荷を与え続けても成長しない」らしい。だから、適切に階段を作って負荷をあげてやると育ってくれる。そして「慣れてない人が急に重い負荷でやると怪我する」。真理だ。今の僕は、心の筋肉が老化している。それを認めたからこそ、自分に最適な負荷はこれくらいだと諦めることができて、今のリハビリメニューができた。そしてこれも筋トレのyoutubeを見ていて出会った言葉なんだけど、
"長くかかるってことに気付いた瞬間そこから一番早くなる"
うわー何事も、本当に、本当にそうだなと思って、自分にフィットして、シュルシュルシュル…ピターん!と心の真ん中に収まった。この言葉をくれた人には感謝だ。

・お金を稼ぐ競争、幸せに生きる競争から距離を置く
他人と比べる、という行為が幸福度を下げるというのはよく言われていることだ。でも、社会に生きてて、他人と全く何かを比べずに生きているひとがいたら、会って方法を聞いてみたい。僕だって比べたくない。このことについてずいぶん考えてきた。でも他人と比べずに東京でダンスで食べていくのは結構な無理ゲーだ。そうじゃないか?だから他人から距離を置いて、ひとりで生活するしかなかった。もしこのnoteの「スキ」の回数だとかいいねの数だとかを気にしだしたら、その時はnoteもやめた方がいい。昔の日記の二の舞になる。だから、好き勝手に書く。それをルールにしている。
これは今の社会を批判したり競争を否定しているわけでは決してない。そこに自分が生きれなかったってだけだ。この冒険は、別のやり方で生きる。っていうことだ。

・心の「ほんの小さな声」を聞く。
鬱病を経験したひとは「世界から味がなくなる」というか、欲求がなくなるっていう状態がわかると思う。欲求ってのは生きるエネルギーだから、これは結構ヤバイ。でも、さっきも言ったけど、命はうまくできてる。ほんのちょっと、「やりたい」が聞こえることがある。上に書いたいくつかのことを、「やらなきゃ」にせず、「やりたい」の微弱な電波をキャッチするまで待つ。だから、「この時間に瞑想する」とかも決めてないし、味のない時間の中でも焦って「やらなきゃ」を発動させないようにする。アンテナ0本しかたってないのに通信できるように、実は心は弱くても電波を出していて、それをキャッチできたなら、感謝して従うようにしている。



 あー、以上が僕の宣言だ。あれ、よくみたら特に何も宣言はしてないよね。書いててこれマジで公開したくない気持ちになってるけどこれ大丈夫?赤裸々すぎない?なんかすっごい量書いてるけど中身なさすぎない?
まぁ•・・いっか。今自分で書いたもんな。これからもnoteを綴っていく。
何を書くのかはわからないが、日々感じた中で、書けそうだ、と思ったことは書いていきたい。目指すところはあって、「自分が読んで面白い文章」を書きたい。100%自己満で自分のために書いている文章だから、いろいろとご容赦願いたい。君がどう感じても、僕は知らない。

一方で僕は「発信どころか、なにかを受信する元気すらない」人に向かって、これを書いている意識が心のどこかにある。そういう人が、たくさんいる。平和な社会の陰に、目に見えない表面の裏側に、本当にたくさん、届かないし、届いたところで毒にも薬にもならないので、そんな駄文に「人のため」なんて意味は1㍉も入れたくない。もし何年かして届いたりしてまかり間違って人を救ったりしたら、「綺麗だねー」と、流れ星を見たみたいな感覚になると思う。流れ星はでも見れたら嬉しいけど。

でもそれは「人の役に立つ気がない」わけじゃない。人はいつだって、人の役に立ちたいという根源的な欲求を持っている。僕も人の役に立ちたい。あー立ちたい。そうすれば自分を認められるとか愛されるとかそういうことではなくて、ただ「人に喜ばれて生きる」ってことをみんな強く欲してると思う。いつかそうやってまたこの世界と、君や、誰かと関わるために、僕は今を生きている。そういう希望があるから死ねない。
この冒険を一文に要約すると、

「努力できないことを許した上で努力をし、人に迷惑をかけない前程のために人との信頼を諦め、勝利するべき敵を設定せずに、ひたすらに自分との約束の積み重ねを、つぶさに観察していく」

ってことなんだ。それが僕が結論づけたこれからの試みで「意志ゼロからの冒険」で、「自分への信頼を取り戻す模索」なんだ。だいぶ冒頭で少年ジャンプの話をした。「独り」で、「できなくてもいいとか予防線を貼っ」て、「勝たない」。友情、努力、勝利の少年ジャンプを否定したいわけじゃないんだ。そうじゃなくて、僕はこの過程で、自分なりの「友情、努力、勝利」を獲得したい、獲得できそうな気が、ちょっとだけど、しているんだ。「すぐ負ける自分」は消えない。その代わりそいつに向かって「お前の役割は、同じようなヤツに寄り添うことだよ。それはお前にしかできないことだ。この世は生き辛いからな。普段はオレに任せろ」と言ってくれるもう一人の自分を生み出す。言わば一人の人間の器の中の「努力と優しさ」だけをタンパク源として生まれてきたそいつが、「弱さ」ばかり肥大させてきたやつと握手する。友情。そして、敵だと思っていたナニカはいつの間にか消えている。不戦勝だ。
自分を変えるのではなくて、つくる。
最初に自分を弱いと言った君は、弱さと、優しさを持ってるはずだ。
優しい君なら、良き友人になれる。
今までの自分を否定しなくていい。やっぱり仲間は多い方が何かと心強い。
僕は弱さの良き友人でありたい。人の良き友人ソフィアだ。

( 「弱さ」と良き友人になる がようやく出てきた。もうここまでくると、読んでる人はマジの変態だろう。変態の君よ、ありがとう。)

この先の人生、きっとまた弱い自分が出てしまう。それをなくせると思う方がおかしい。「結局自分は変われなかった」と嘆かないようにしなければならない。だから「弱さ」を擬人化する。「弱さくん」の召喚。別に湯浅くんでも真麻ちゃんでもいいんだけど、とにかく自分から切り離す。そして新しい自分を作る。変えるのではなく、また新しく作る。お値段据え置き。クソ弱なオマエに、デェ丈夫だと彼が言う。未だみぬ彼を地道に心の中で育てていく。問題は解決してないし、弱さは克服できていないが、同時に強いオマエも存在している。ビューティフルマインドっていう美しい映画があったな・・・ちょっとあんな感じだ。

そうすれば、「もし同じような人がいても寄り添える自分でいれる」と思った。僕が絶対になりたくないのは例えば、努力をして成功したからと言って努力していないやつを見下すようなヤツだ。人それぞれの弱さ、人それぞれの豊かさを自分のモノサシでしか測れない、そういうヤツにはなりたくない。僕が嫌いなのは、人をバカにするひと。少年ジャンプは友情、努力、勝利以外に、優しさがあるのを忘れちゃいけない。

「弱さ」を克服して強くなる物語になんども憧れてきた。憧れまくった。というか今でもそういう物語は涙腺にくる。それがどれだけ強くて、尊いことか、できなかった僕だから、わかるから。もし、克服しようとしている人、すでに克服した人、これを読んでいたら、本当に凄いと思う。心から拍手したい。今したからよかったら受け取ってください。僕は、できていません。初めて鬱と診断されてから10年経って、寛解できず、本当にいろんな人に迷惑をかけてきた。それを自分で責めることで鬱が酷くなった。こんなの、もう絶えられない。大冒険するしかない。

一応、この期間やる、というのを決めている。独りで、といっているけど、僕はこれをまた社会と関わって豊かに生きたくてやっている。希望だ。

・・・というわけでこの(自分にとっては)大冒険を続けている。その過程で、こうしてnoteも書いていこうと思う。ここまで読んだ君はまごうことなき変態だ。ありがとう。

「わたしは弱い人間だ・・・」と思っていて、ここまで付き合ってくれたそこのキミ。僕はキミの命を全力で肯定する。今はただそれしかできないけど、いつの日か、「優しい強さ」を携えて、君に会いにいこうじゃないか。良き友人に、なれたら。

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