君が眠れば夜は静かで

木曜に体調を崩してしまった。
具体的には吐き気と熱っぽさ、倦怠感だ。

二週くらい前から少し忙しかったせいだろうか、同僚が気遣ってくれたのが申し訳なかったり、優しさに泣きそうにもなった。
なんだか久しぶりに人の優しさに触れた気がする、絶対に気のせいなのだけれど。

そんなわけで、週末は用事がなくても外に出ることが最近は多かったのだけれど、今日はそれを止めることにした。
今朝は軽い頭痛があったくらいで、この記事を書いている23時現在はそれなりに体調がいい。

今日はサッカー日本代表U-22の親善試合vsアルゼンチンが14時からあった。楽しみな世代だ、試合も見ごたえがあって面白かった。
ジョエル、半田はかなりよさそうだ。ジョエルにMVPに投票したけど、流石に二得点決めた鈴木唯人だとは思う。

その後はだらだら部屋の軽い掃除。

軽い買い物を近所で済ませて、お昼に作った味噌汁と冷食の担々麺を食べた。
朝にご飯を食べていなかったので物足りなかったのか、担々麺の残りの汁に冷凍うどんを突っ込む。まあ普通の美味しさだった。中華麺の方がそりゃあ美味い。

夕食後に腹ごなしで筋トレをしてランニングをする。もう健康にも気を遣う歳になった。
身近にいる人生の先輩方が口々に「35からがヤバい」と言うので先の準備である。

そういえばどこかで少し数学の勉強もしたか。

筋トレランニングを終えて、風呂に入るくらいで、今日はnoteに日記を書いてみようと思い立った。
夏前にしまっておいたアロマディフューザーを取り出し、軽く水洗いをして机上の環境を整えて、現在である。

Spotifyで自分で作った夜に流すlo-fi的なプレイリストをシャッフル再生している。今流れているのは水星だ。チョイスとしていかにもでいい。アロマディフューザー焚いておいてよかった。


少し前に友人から芥川賞を受賞したハンチバックを貸してもらって読んだ。

とても内容は面白かった。ただ、その本のせいなのか、どうも最近考え事をする頻度が高くなった。

生と死とかそんな考えてもどうしようもないことを延々考え続けていた思春期の頃の感覚を少しだけ思い出した気がする。
人の欲とか、生きづらさを抱える人たちがどう生きるべきなのか、とか。


コンビニ人間という小説が大好きだ。自分の中ではもはや崇拝の域まで達しているような気がする。
当然、主人公や作中の白羽さんのようなムラの外の人間の気持ち側の方が共感する。

今、読み返したらどうだろう。と少し考える。


自分がかなり人生に鬱屈していた時期、本当に生きづらくて生きづらくてたまらなかった。

どんな言葉をかけられても信じられなかった。
この鬱屈とした気分が生涯ずっと続くと思っていたし、生きられたとしても、それと共に生きていくしかないと思っていた。

同じような境遇の人が話してくれるポジティブな経験談も自分の頭には入っていかなかった。

「いや、それはあなたの生きる力がめちゃくちゃすごいからじゃないですか(笑)」

みたいな卑屈さだ。


けれど、今は彼らが言っていたことがかなりわかる気がする。

気にしなくなる。

自分の駄目さも受け入れたり、克服したりできる。
生きづらさはすべて払拭されたとは言えないだろうけれど、少なくとも精神的な生きづらさからは解放されているように、今は強く感じる。


ハンチバックはとことん自分の欲に正直だった。
あくまでも自分の感想だけれど、主人公はとても精神的に健康だったように思える。
ツッコミはあくまでも感想だから勘弁してほしい。

実際はめちゃくちゃ精神的にも生きづらいのだと思う。
だからこの作品が出来たのだとは思うのだけれど、読み返してみても言いたいことを正確に書くための自分の語彙が足りないので、ニュアンスでこの記事も読んでいただけると助かります。

たしかに彼女は生きづらそうだった。ひしひしと感じたし筆者本人も言っているけれど、これは怒りだった。本当にブチ切れてた。

でもある種、自分が抱えていたような精神的な生きづらさを彼女は抱えていないように思えたのである。


自分が苦しかった時期は、どうもそういう自分の欲を我慢して、抑圧し続けたことで、何か精神的な負担が大きくなっていたように思える。


今コンビニ人間を読んだらどう思うのだろう。たしかにムラの外の人間に共感をするとは思う。けれど、もしかしたら感じる感想も変わってくるかもしれない。

初めて読んだとき自分は周囲の登場人物の方が気味が悪くてしょうがなかった。
けれど他の読んだ人に聞けば、この主人公や白羽さんのことを気持ち悪いと感じるらしいのだ。

自分が普通側に立ったとは思っていない、けれど感じることも少し変わってくるのかもしれない。

そのくらい鬱屈としたときというのは、かなり思考がおかしい。認知歪みという言葉があったけれど、まさにその通りだったと思う。


いかにも自分がどんなに励まされても、うがった見方をしていたのは、そんな時期だったせいだと思う。
快方に向かったことでその捉え方もかなり変わったように今は思っている。


どうもSNSを見るとそんな認知歪みの状態に共感をしている様がものすごく奇妙と言うか、悲しく見えてくる。
そんな状態を多人数が共感する物じゃない。

自分がそういう言葉に共感する立場だったからこそ強く言える。
そんなことはないよ。今はとりあえず生きて、快方に向かったときに同じ問いを受けてみて欲しい。


もう本当に前に道がなかった。見えないというか、もう一歩踏み出せば崖だった。

けれど、それはただ本当にたまたまその時期に見えてなかっただけで、時間が経てば、何かのきっかけでふいに見えてくる。

そのときを待って欲しい、と心から思う。そんな思い悩まないで、大丈夫、生きていればきっと道が見えてくる。

この上記の言葉が、きっと綺麗ごとに聞こえるだろう。私には無理だ。と思うだろう。

わかるよ、自分もそうだったから。


AM1:34 kikiviviが流れている。いかにもでいい。


疲れたから眠ることにする。
一度は下書きにする。投稿するかはわからない。

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