ヤンキー文化と『えんとつ町のプペル』

最近、映画で『えんとつ町のプペル』がHITしている。

キンコン西野がオンライサロンだとか、胡散臭い商法もあるんだけど、それは置いといて。
ツイッターでは

「えんとつ町プペルで泣きました!」
「大号泣!」
「感動の嵐」

とある。
嗚呼、これは駄作なんだろな、と思う。

普通、人間って『感動』とか『感激』とか『思わず泣いてしまった』と言う、『感情の動き』があると、恥ずかしいと思うんだよな。

恥ずかしい、と言うか『感動』とか『衝撃』って言葉に出来ないと思う。

その『感情が動く』と書いて『感動』とあるが、その『感情の動き』を1万枚にスライスして、漸く「感動」と言う言葉が出てくる。

で、ツイッターで『えんとつ町のプペル』を観た人は、観た直後に「感動した」「泣いた」と書く。

それは感動でも感激でもないんだよな。

絵本で凄いな、と思ったのは『アライバル』と言う台詞が一切ない絵本だった。
新宿のジュンク堂で別の本を買おうと思ったのにビックリして買ってしまった。

確か、好きな女性にプレゼントしようかと思っていたのだが、自分のモノにしてしまった。

感情が動く、と言うのは秘密の行為だと思う。

『感動』と言うのは『感動しました!』ではなく、美と言うのは衝突や乱調である以上、「うっかり、感動してしまった・・・」
とチョット、恥ずかしくなると思うんだよな。
交通事故に遭遇してしまったような(交通事故で感動する人はいないが)、アクシデントと言うか。

で、『えんとつ町のプペル』なんだけども、全国津々浦々、1億3千万人が泣くor感動するモノって何か?って言えば

『ヤンキー文化』

です、と言うか。

ヤンキー文化はやっぱり強いんだよな。

こう言う『感動ポルノ』って、やはりヤンキーの為にあるわけでさ。
渋谷のハロウィンもヤンキー文化の末裔なワケで、集客力や宣伝効果、経済効果はヤンキー文化が大きい。


ヤンキー文化の強力さは凄いんだよな。

だから、ヤンキーになれない人はアングラHIPHOPを聴いたり、ノイズを聴いたり、HCだったりテクノやハウスを聴いたりして『文化と言う名の暴力性』と言うか『間接的暴力性』憧れるワケだが、ヤンキー文化がもっている『直接的暴力性』へのアンチなんだよな。

多分、日本の『サブ・カルチャー』って基本的には、そう言うモンだと思う。

『サブ』である以上、『メイン・カルチャー』が存在するのだが、それは『ヤンキー文化』である。

あるのはヤンキー文化と言う『メイン・カルチャー』と、ヤンキーになれなかったロヒンギャ難民のような子の『サブ・カルチャー』と言うか。

サブ・カルチャーはロヒンギャ難民だとか、ソマリア難民だとか『難民系』だから、あまりッパ!とはしない。

私がサブカル青年だった頃って、思い返しても痛い青年だったと思うしな。

①ノイズ専門誌を発行する(フリーペーパー)
②DJをする
③アングラ演劇をやる
④暗黒舞踏をやろうとする。
⑤下手糞な楽器を演奏する。
⑥童貞

色々と頑張っていたのだが、童貞だった。

男子校卒だったので『脱!童貞』だったのだが、そう言うサブカル青年になれば成るほど、『脱!童貞』は遠のくばかりだった。

童貞はエルサレムへの道のように果てしなく遠く、険しい道だった。

しかし、世間一般で言えば『ヤンキー文化にコミット出来る人』こそが

『アーティスト』
『クリエイター』

となる。

これはキンコン西野に限らず、ネットで『クリエイター』『アーティスト』と呼ばれている人が、どの層に向けて発信しているか?で分かる。

作品を観てすぐさま『感動しました!』ってツイッターで書かれちゃうのは、やっぱり違うと思うんだよな。

ってか『感動』って言葉が安直に使われすぎているんだけども、もしも本人の感情が動いたのであれば、それは安直に言葉には出来ない。
だが、言葉に出来る『感動』は感情が動いたワケではないんだよな。

ただ、その作品が10年、20年と残れば違うと思う。

だけども、『えんとつ町のプペル』は残らないと思う。

それは文化とは言えない気がする。

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