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手品でくれたお年玉 (掌編小説と短歌)

「お年玉っていうぐらいだからコインでもいいよな」

って、お父さんの弟の和彦おじさんはポケットから五百円玉を取り出した。それがぼくの人生で初めてもらったお年玉だ。

「じゅんぺい、きょうこ、かずおじちゃんの手品見たことあったっけ?」

というお母さんの声をよそに、おじさんはその五百円玉をおっきな手をした親指と人差し指で軽くつまみ、ぼくの目の前に持ってくる。

「ふたりとも、いいか、よーく見てろよ」

ひょいと五百円玉を手の平に握る。「うーん」とちょっと大げさなくらいに念じてから「ほいっ」とおどけて、ぼくのポケットを指差す。

「えっ」

不意をつかれたぼくは、あわててセーターのポケットの中をのぞいてみる。そこにはぴかぴかの五百円玉が1枚。もちろん、おじさんの手の平には何も残っていない。

「すっげー!ねぇねぇ、どうやったの。ねぇ、かずおじちゃんってばー!」

「んんん? あれっ?」

と、きょうこ姉ちゃんの肩の力が抜けたような声で振り返る。姉ちゃんのベストの左右のポケットには、千円札や五千円札の入ったぽち袋。(おもてにじゅんぺいくんへと、きょうこちゃんへと叔父さんのおっきな字で書かれてる)ねぅねぇ、どうやってポケットに入れたのー?と、どっちかというとお年玉の中身のこともあるけれど手品の方に興味津々なふたり。かずおじさんは、お正月のお屠蘇(とそ)で、すこし赤くなったのか、あたりをぼんやりと眺めながら、お年玉をもらうぼくらよりも、なんだか笑顔のようだった。

毎年そんな感じで、ぼくたち姉弟にお札(と見えたもの?)をライターで燃やして一瞬でぼわっと消して見せたり、びりびりに破いたお札を復元させてみたり、そっか今年はお年玉少ないんだなぁって思っていたら、別のお札にぱっと早変わりしていたりと、ぼくたちにとっては、とにかく年に一度のそのマジックが、お正月の一番の楽しみだった。(姉ちゃんかぼくのどちらかが、いまでもこのマジックのことを、たまに思い出しては話している)

でも、ぼくが小学三年になる頃、おじさんはまったくの急な話なんだけど、海外のなんだか聞いたこともないような国の、ものすごーく遠いところに行くことになったそうだ。お父さんの弟だった和彦叔父さんとは、その年以来、〈お正月には〉会えていない。

もともとが気まぐれな叔父さんのこと。なんかの拍子に絵葉書がたまーに届いたことや、何年かに一度、ふらーっと突然帰ってきたこともあった。くったくたになったかばんをひとつしょったまんま、屈託のないあの顔で「よっ!」って軽くいいながら。

だけど、それだと、あの独特の、お正月の空気感じゃあないんだよなぁ。やっぱり。



ぼくも今年で二十五だ。きょうこ姉ちゃんの子どもも来月で3つになる。街にはクリスマスソングが流れている。ぼくはポケットに手をつっこみ(五百円玉)を握ってみた。ふいに笑みがこぼれてくる。


さっきから降り始めた粉雪は、肩の上に舞い降りると、音を立てずマジックのようにそっと消えた。




短歌

お年玉手品でくれる叔父さんはもらうぼくよりなんだか笑顔





※ 2021年12月 すこし書き直しました。

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