見出し画像

こどものめもりと大さじ、小さじ

こどものねぐせです。こんにちは。

仔犬の時期は、あっという間。

どこかに目盛りなんてあったっけ?

どんなちいさな仔犬も、ふと気がつくとおとなの犬になっている。

見た目はあんまり変わらないサイズの犬も、おっきな犬も。セントバーナードだって、ダックスフントだって、柴犬だって、ブルドックだって、ボルゾイだって、バーニーズマウンテンドッグだって。え?知らない?ま、おいといて。

こどもの頃は、よく絵を描いた。

描きたくて描いてた。

うれしいときやたのしいときに、自然とくちぶえ吹いちゃったりしちゃうように。

ごはんの時は、これを食べるんだ!と決めてから食べるんじゃなくて、どれもおいしいなぁとむしゃむしゃと喜んで食べていた。(にがい野菜とか、苦手なものもそれなりにいくつかあったけど、いまは適度な苦味や酸味もうまみのひとつと理解してる)

描く方だって、誰に見せたい訳でもなく、好奇心旺盛なまんま、見たまんま、感じたまんま描いていた。クレヨンや色鉛筆やチューブの絵の具も、おんなじ色ばかりが、すぐに減ったって、ぜんぜん平気だった。みどり、みずいろ、青、黄色、茶色、他より大きな白色を混ぜながら、好きな色をパレットの余白のところで、気にいる色が出るまで何度も作り出す。画板や、黄色い水彩用のバケツ、大筆、中筆、小筆、平筆……。

大好きなものや風景、遠足、たまにの旅先での想い出。(描くとは、ちがうけど、タンスの下の方にシールをたくさん貼ってたのも思い出す)

たのしかったことや、うれしかったことなどのいろんなメモリーは、いまもぼんやりとこころの中に持っている。

あらすじ以外の、ワンシーンのなんとなく、ほんわかした読んだ記憶のある本のことも。

そんなことを思ったので、MEMOりました。

いろんな環境の中、歳をとりながら、たぶん、それぞれがもっている、ひとりひとりのファジーなめもり。

ときどき、あっ、なんだかわすれものしたかな?と思ったら、あたまの中のこどものめもりと、おとなの目盛りをとりかえっこしてみます。

大人になってから、こどものふとした、ひとことを読んだり聴いたりするのが、大好きです。福音館書店さんの、子育てさんへの月刊誌「母の友」の見返し裏の数人が交代で書かれているエッセイも好きなんですが、それに続く、写真家の方(わたしが持っているバックナンバーを見返すと梅佳代さん!あ、そりゃこどものひとことと合うわけだ!)の写真と、一緒に掲載されている、(こどものひろば)という毎月の2つくらいのこどものひとことのページが、長く続いてて、大好きなんです!このページだけでも、じーん!とすることもたびたび。今月号も、よかった。興味があったら、本屋さんで、ふふふと肩をゆらしてみてね)この回の、いつかへのおみやげです。

※(後日、二月号の確認したら、写真家の方は、繁延あづささんという方になっていました。この方の写真もかわいかったです。)

わたしの場合、バタバタしてて、余白のせまい、やわらかいものにふれてない暮らしをしてると、次第に凝り固まってしまいそうになる。ときおり、そういうやわらかいものにふれることで、(ふふふや、へぇーっ、ほぉほぉ)って、見えないけど、あるだろう、おとなの目盛りが、こどものころを思い出し、懐かしくて、うれしくなって、動き出し、びよーんびょーんと、伸び縮みしてるのかもしんない。

見えてるものは同じつもりでも、感じ方はそれぞれだろうから。ま、わたしの場合なんだけど。

あたりまえだけど、ちいさいころは、何もかもが、おっきく見えていて、わかんない分、イメージするのがあたりまえだった。こどものめもりで測りきれないものばかりだったから。そこからはみ出そうなものは、イメージするしかなかった。だからどんぐりを拾ってきたり、丸くなった石にも、いちいち、びっくりしたり、草むらや、田んぼにも親しんでいたり、自分と自然に、一体感があったような気がしてる。だれでも、そうなんじゃないかな?ちがう?だから、こどもって、よく、きょとん、としてる。ん、なんだろ?って。

大人になっていくにしたがって、その感覚が遠のいていく。わかった気になって、うんうんと言ってしまいがちで。だから、あのころみたく、ただ画用紙に、かぶとむし!とか、四葉のクローバー探しに夢中になれてた。親しみたいものとの距離感が、意識しなくても近かったんだろうね。

大人になったいまでも、わずかな時間でも、趣味とか、興味ありそうなことには、大さじとかでなく、デザートを小さじで、ゆっくりとその(時間)自体をお気に入りのおさらにのせてゆっくりと味わうように。でも、それって案外、難しいんだよね。気がつくと、はやく!はやく!と自分で自分をせかしてる。

大さじばかりで、デザートを急いで食べ終わっても、ぜんぜん笑ったりしてないじゃん。ほらほら早く食べなさい!なんて。おとなの自分がこどもの自分に言うように。あんまり速く速くって、せかしてると、こどもの自分が、もういい!いらない。と、大好きなデザートでも、スプーンをおいて、ふてくされて、くちをふくらませて、あっちにいっちゃうってことも。

うまっ!おいしいーとか、おかわりってまだある?とか、デザートじゃなくたって、ごはんでも、鍋のあとで、雑炊にするから、お汁はある程度残しといてよ!なんて、ひとりだって落語気分で一人二役で、こころの中で言ったっていい。もちろん、誰かと一緒に暮らしてるなら、これ、おいしいねって、あったかいことばが、ふわーと、湯気になったっていい。

大好きなもの(趣味や風景を観るとか、なんかかんか)との、ふれあう時間だけは、デザートをゆっくり味わう感覚で、小さじで食べるようにしていたい。

いつ見ても山や海は相変わらずどっしりとおっきい。

山や海になれるとは、思ってはいない。大きすぎるものとは、最初から比べてはいない。でも気がつくと、ささいな違いには、ついついこだわってしまいがちだ。

ただ自然の中に、おっきいものが、おっきいまんまで、でーん!と感じられてる、ということは、なんともいえず、どっしりしていてありがたい。

そうだ、あったかい、お出汁でも飲みたいな。

山の幸に、海の幸。

具沢山でなくたっていい。きのこに、こんぶ、出汁が染み出た、ほかほかのお出汁であったまろっか。


おとなの目盛りとこどものめもり、どっちもいるんだよね。不器用だから。でもだからこそ、わたしにとって、大事なことは、たぶん、大さじと小さじのあいだにあるのかもね。

些事(さじ)の愛だ(間・あいだ)に。

おあとがよろしいようで


短歌

デザートは大さじでなく小さじだよひとさじごとに想い出となる



※ 書いた後、いままでに取り上げた、星の王子さま、モモ、星野道夫さん、北欧暮らしの道具店さんのラジオでも、どの方も、何度となく(時間)について、語られていたのを思い出したので、ここに書いておきますね。

1/24 少し手直し









ユーモア、ほっこり気分を分かちあえれば嬉しいです。スキ、サポートをいただければ励みになります。