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中学生のネットジャーナリズム問題を考える

小寺・西田の金曜ランチビュッフェ 26号(2015年3月13日発行)より

川崎中1殺害事件の加害者宅と思われる家を、中学生がネット中継するという件に関して、賛否あるようだ。殺害事件そのものは今さらご説明するまでもないと思うが、犯人として逮捕された3人のうちの1人の自宅付近の模様を、ある中学生がニコニコ生放送を使い中継。生放送なので、当然親族と思われる方の顔や車のナンバー、自宅の表札などが丸見えになった。

この中学生は、夜間にも容疑者自宅前から中継を行なっており、警察から任意で職務質問を受けている。その模様もそのままネット中継された。警察は近所から迷惑であるとの通報を受けて、事情を聞きに来たようだ。

これら一連の放送に対し、ネットでは賛否が巻き起こることとなった。まずネットの意見を整理してみよう。彼の行動に関して賛成の意見をまとめてみると、次のようなものになる。

1. 彼の放送は被害者宅に群がるマスコミの様子を報じているもので、そのような視点の報道があってもよい。

2. 警察に対して一歩も引かない態度や受け答えが真っ当で、頭がよい。

3. 報道の自由および知る権利が国民にある以上、彼の行為は正当である。

4. マスコミや警察、政府によるバイアスのない一般市民の報道は、世論誘導に対抗できるソースとなるため、有用である。

一方非難する立場の意見をまとめると、次のようになる。

1. 少年法によって守られているはずの犯人の氏名(この場合は名字)が丸わかりになっており、少年法の精神に反している。

2. 放送そのものは興味本位であり、近隣住民や関係者に迷惑がかかっている。

ネット全体的に見ると、この中学生の行動に賛同している人の方が多いように見える。あるいは単に面白がっているだけかもしれないが。

これら一連の行為は、ジャーナリズムの範疇と言えるのだろうか。僕は一応これでもNHKで報道の仕事に都合8年関わってきたので、社会ニュース報道の現場を知っているつもりである。残念ながら新聞や週刊誌といった紙媒体のことは存じ上げないので、今回は放送というくくりの中で話をさせていただく。

■ジャーナリズムは誰のものか

まずジャーナリズムはマスメディアだけのものなのか、という点について整理したい。

まだ誰もがネットで情報を発信できる以前の社会では、情報が力を持つためには、広く知らしめるためのインフラが必要であった。だから放送や新聞、部数の出る週刊誌といったマスメディアが、ジャーナリズムを体現していた。

しかしインターネットの普及により、各個人の発信力が増大した。最初にマスメディアへの対抗勢力となったのは、ブログである。個人が運営するブログが、マスメディアが報じないテーマや、マスメディアとは違った視点で社会問題を取り上げることで、新しいジャーナリズムの萌芽と呼ばれたものだ。米国では2000年過ぎたことからこの傾向が顕著になったが、日本においては単に公開日記としての使われ方がメインで、ジャーナリズムに振ったものは少なかった。日本でブログ元年と言われているのは、大体2004年頃である。

本格的にブログがジャーナリズムとして力を持ち始めるのは、SNSが台頭してからだ。つまり人のネットワークができて、そこにリンクが流されることで集客され、加速度的にブログのエントリーが大きく広まるというサイクルである。Twitter元年と呼ばれる2009年以降、この傾向は特に強まってきた。

そして2011年3月11日を迎える。これ以降、報道は真っ二つに分離した。いわゆる大本営発表を垂れ流すだけと揶揄されたマスメディアに対し、ネットの生放送が審議会や記者会見の模様をフルタイムで放送することで、「マスメディアが報じないが、発表されたこと」が国民に筒抜けになった。すなわち、マスメディアが何を報じなかったのかが、可視化されるようになった。

これによりインターネットの生放送が、ジャーナリズム的な見方“も”されるようになる。“も”と協調したのは、ジャーナリズムと称しておかしくない、トレーニングされたスタッフ、あるいはマスコミ出身のジャーナリストによるレベルの高い放送が登場する一方で、素人が1人2人でやる興味本位の野次馬的放送もまた、大量に勃興したからである。

これらは現時点においても、明確に線引きされることは少ない。あくまでも視聴者の主観によって、その信頼性が評価されるにしか過ぎない。しかし、マスメディアであろうがネットの生放送であろうが、システムの規模に関わらずジャーナリズムが意識されるようになったのは、3.11以降だと言っていいだろう。

日本におけるジャーナリズムは、公平性が強く求められる。これは第二次世界大戦の反省から、メディアが体制に組み入れられないよう憲法で保護されたからだ。特に報道の自由は、国民の知る権利に奉仕するものとして、強く規定されている。これは他国にはあまりない傾向で、アメリカなど勝戦国においては、有事にはマスコミの報道及び言論の自由は法で制限される。

日本のマスメディアに従事するものは、最初にこの点を念入りに叩き込まれる。ただ実際には、体制に迎合しないことを意識するあまり、全体的には若干反体制の色が強いのが、日本のマスメディアの特徴かもしれない。現政権である安倍内閣の支持率は現在47.4%程度でこのところ安定しているが、長期政権となり力が強くなってきたことで、反安倍内閣的な記事が増えているのは皆さんもお気づきだろう。

国民の目も、マスメディアが体制に迎合していないかどうか、強く監視している。体制といってもこの場合は、国や政府に限らず、大手企業や経済界の意向なども入るだろう。ただし民放は元々ニュース報道と言えどもスポンサーの提供によって番組が作られており、報道の独立性がどこまで担保されるべきかは常に議論になるところだ。

その代わり、公平の厳密性は公共放送であるNHKに向けられる。以前から本メルマガでも何度か説明してきたと思うが、NHKは国営放送ではなく、公共放送である。言うなれば、スポンサーは国民だ。当然、私企業の広告宣伝に荷担することはできないため、良い取り組みに関しては社名が報道されることはない。

テレビ放送の公平性については、放送法第2章第4条に規定されている。

(国内放送等の放送番組の編集等)
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

一方でネットの生放送は、放送法の規定は受けないので、必ずしも上記の公平性を担保する必要はない。しかし上記4項目は、ジャーナリズムの基本として妥当なガイドラインではあるので、おおよそこれを遵守するほうが、きちんとした報道であると認められやすいのは事実であろう。

■取材と報道の関係

放送法で規定されている公平性とは、最終的なアウトプットがそうであるべきという規定だ。一方で多くの方が誤解しているのは、取材現場では必ずしも公平性は担保されないということである。

事件の現場であったり取材先自体が、ある方向に偏っている場合は往々にしてある。そこを取材する場合、撮れ高(結果)は公平性を欠いているのが普通だ。だからいろんな現場に行ってそれぞれの方向で偏っている意見を取材し、最終的にバランスが取れるように編集して放送する。放送法ではそれを求めているわけである。

ここで難しいのが、生中継の場合である。ニュースの生中継はそこが最終アウトプットであるから、偏るわけにいかない。だから現場から中継では、意見を述べずなるべく事実を淡々と述べるに留まるのが普通である。そしてその解釈であったり反対意見は、それを受けるスタジオのキャスターなりが紹介する。

現場で反対意見などを紹介しないのは、現場ではなるべくそこの場の空気に馴染むようにしておかないと、報道者に身の危険が生じるからである。たとえばJリーグの優勝現場で、勝ち方に不審点があるなどと報じれば、周りのサポーターから暴行を受けるといったことは十分に考えられる。実際に事件現場に出るスタッフには、傷害保険や生命保険、あるいは組合等による共済などに加入させるのが普通である。

ここで重要なのは、事件現場での取材では、まだ何をどう報じるかは決まっていないため、できるだけ多くの事象を素材として取材しておく必要があるということだ。だから、「そんなことまでいる?」と思われるようなことまで、取材が発生することになる。

■彼は何をやっているのか

話を中学生の放送に戻そう。彼がやっていることは何なのか。

実際に彼が行なっている放送を、YouTubeでいくつか見た。特徴的なのは、彼は常に自分を撮影しているということである。そして彼の背後に現場が写り込むような、広角のカメラを使用している。これにより、彼は現場を不用意に映しているのではなく、自分を撮影しているのだと主張できる。

おそらくノートPCを画板のようなものに乗せ、モニター部の上にWebカメラを取り付けているのではないかと想像する。基本的には彼1人のモノローグだけで放送が進む。顔は鼻の部分だけマスクで隠しているが、目と口は見えているので、ほぼ顔の特徴は把握できる。いざとなればWebカメラを外して、前を映すこともあるようだ。

最初に問題となった、加害者自宅付近の動画では、単に家の周囲をぐるぐる歩いているだけだ。時折現場の取材班に声をかけるが、無視されている。それに対して冷たいとかマスコミに対しての不満を述べているが、それは彼が放送中であるなら、普通は答えないだろう。いわゆるオフレコでの雑談には応じるかもしれないが、まだどうアウトプットするかわからない事象を、オンエアで聞かれても困るのである。

実際に動画を見ていない人は、それを伝えるブログ記事などから、彼が報道を行なっているように見えるかもしれない。だが僕が実際に動画を見て感じるのは、これは単に興味本位で行なっている野次馬的な行動でしかないということだ。そもそも彼の行動には報道計画のようなものもなく、ハプニングが起こることを期待して集まっているだけの、野次馬的な行為である。

それはマスメディアも同じだろうと思われるかもしれないが、マスメディアの場合、何か動きがあれば取材として撮ることは撮るが、それをそのままメディアには出さない。あくまでも素材として収集するだけだ。隠す必要があるものは隠すなどの処理を行なうのが前提である。

中学生の彼の場合、守らなければならないプライバシーも、少年法による保護範囲も何も処理しないので、丸見えである。これは、報道ではない。何もかもを見せるのは、報道の自由を行使したことにはならないのだ。なぜならば、自由の対価である義務を果たしていないからである。これは、単なる映像の暴力だ。

同じようなことは、2008年の秋葉原連続通り魔事件の時にも起こっている。たまたまPCを持った人が事件現場で刺された人をネット中継でそのまま流し、大炎上したことがあったのをご記憶の方もあるだろう。今回の中継では何も事件が起きなかったが、もし起きたら同じようなことになるわけだ。

他のマスコミ取材陣と違って、特に彼だけが現場当事者から退去を命じられたり、通報されて警察から職務質問を受けるのは、彼だけが常時ノンフィルターでオンエア状態であるからだと言える。

ではこういった行為を、誰が規制できるのか。これについては、放送プラットフォームである「ニコニコ生放送」側に責任が発生すると考えられる。もはやネット中継は、誰でもやりたい放題でいいわけがなく、他人のプライバシーを毀損するケース、あるいは違法行為を行なっているケースでは、放送を遮断すべきだ。利用者が多すぎて対応できないというのは、理由にならない。それならば、対応できる数の放送数に事業を縮小すればいいからである。

ただ現実にはそういう小難しい話ではなく、すでに彼は何度か放送停止処分を受けている。いわゆる運営側も、もう目を付けている状態にある。児童ポルノのようなわかりやすい事案は判断が難しくないが、プライバシーは線引きが難しいのは事実である。だからしっかりとしたガイドラインづくりと、それを利用者に提示することが必要である。

最後に、これまで誰も指摘していない問題点を述べてみたい。このような放送を続ける未成年者である彼の安全は、誰が責任を追うのかということだ。

彼は加害者宅だけでなく、亡くなった中学生の通夜も無許可で生放送している。双方のプライバシーを侵害したからには、事件の双方の関係者から恨みを買っている可能性は高い。未成年者である彼の物理的な身の安全を考えれば、これ以上このような放送を続けさせるのは正しくない。保護者の責任も問われるところだ。

また彼の言動で気になるのは、放送の視聴者数が多くなることで、自分の行動を正当化しているところだ。「僕には生(放送)がついている」と言った自信の持ち方は、危険である。

これは2011年に起こった、そらの氏のダダ漏れ炎上事件を彷彿とさせる。当時「そらのちゃん」としてダダ漏れなる方法論で絶大な人気と支持を集めていた佐藤綾香氏は、ネットで論争している当事者に直接アポイントを取り、その意見をそのまま放送していた。これが一方的であるとして炎上、結果的にはこの事件を以て、「すべてオープン」で片付けていた「ダダ漏れ」という行為が失速することとなった。

この事件で我々が得た教訓は、何でも白昼の下にさらしさえすれば、「ここはただの場です、透明です」と開き直れるわけではない、ということである。何もバイアスがないことを誇っても、場を提供した責任を回避することはできないのだ。見ている側は刺激的で単に面白がっているだけであり、根拠をもってその正当性を支持しているわけでも何でもない。この中学生が何らかの事件を起こせば、彼を支持している層は一斉に叩く側寝返るだろう。

中学生である彼は、未だアイデンティティの確立の途中にある。アイデンティティの確立のためには、強いレベルでの承認欲求が満たされる必要がある。通常はその前段階で、大きなハードルを経験し、それを乗り越えることで強い承認を受け、自己肯定感を強めていく。アイデンティティは、叩かれて自己を修正していくというサイクルの結果、確立される。このハードルとなるのは、通常は保護者や先生、近親者である。つまり平たく言えば、反抗する相手だ。

このハードルが十分に機能しなかった場合、今の子供達は承認欲求をネットによって満たそうとする。彼が常に自分を映し続ける姿は、自己顕示欲ではなく、誰かに強く認められたがっている子供のそれである。

ネットではなく、彼を取り巻くリアルな社会の中で、彼の反抗を受け止めてやれる大人が居ないことが、この問題の根底にある。未成年者のネットでの暴走は、大人のそれと同列に考えるべきではない。

こうした事情も含めて、少年法は子供のプライバシーの保護義務付けているのである。そしてその法を遵守する、子供にも遵守させるのは大人の責任だが、彼の周りで誰もそれを果たしていない結果、この状態にあるということであろう。

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小寺信良と西田宗千佳のメルマガ「金曜ランチビュッフェ」から派生した原稿を発表していくnoteです。
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