“Enfance (Childhood)”展に寄せて

2018年、パレ・ド・トウキョウというパリにあるアートセンターで、 Enfance: Encore un jour banane pour le poisson-rêve (EN: Childhood: Another Banana Day for the Dream-Fish) という展覧会にアソシエイト・キュレーターとして関わった。これはその展覧会に合わせて発行されたマガジンに寄せたテキスト。いわゆる図録ではないから、「何を書いても構わないよ」と言われたのだけれど、3月5日にその連絡が来て、英語テキストの締め切りが3月30日。だいたいどんなテキストでも、なんだかんだで調べ物は発生するものだが、このときばかりは、自分の頭の中にあるものだけで組み立てるほかなかった。それで、昔取った杵柄ーー漫画文化の歴史を経糸にした。緯糸は私の家族の歴史。苦肉の策だった割には、世界文化史のひとつの側面を描けた気もする。

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(「Magazine PALAIS #27 」(2018年6月発行)にフランス語と英語で収録された。未発表の日本語テキストの冒頭から8割)


1954年7月号の『漫画少年』(1)では、手塚治虫(2)の新連載が始まった。流れるような展開、生き生きとした絵−−そしてこのストーリーの不思議な面白さはどういうことだろう。8歳のヒトシは、三千年の寿命を得た主人公たちの運命と苦悩に強く惹きつけられた。その雑誌は、自分で買ったものではなかった。裕福なクラスメートの購入したものが、クラス中で回覧されていた。敗戦からまだ9年、ほとんどの家が貧しかった。ヒトシもいつもお腹を空かせていた。でも何よりも、知的な刺激に飢えていた(3)。

ヒトシが「漫画少年」で読んだ「火の鳥」は完成をまたず1955年に休載したが、その後媒体を変えて書き続けられることになる。神話や歴史の有名なエピソードを下敷きに、主人公たちが、不死鳥・火の鳥との邂逅をめぐり命や意識の危機に直面していく。舞台は3404年の未来にまで及び、全体に文明の興隆と衰退、科学の進歩と失敗という通奏低音が響く。手塚のライフワークとして彼の死の前年、1988年まで発表された。8歳だったヒトシは42歳に至る人生の折々に、この作品を読み続けた。人生において重要な意味を持つことになった文学や映画などの創作物を、誰でも心の中に一つは持っているだろう。日本では、特に今を生きる世代にとってのそういった作品例のいくつかは、この漫画という表現ジャンルのうちに生まれている。

ヒトシの子供時代は、第二次世界大戦時の世界地図と占領国アメリカ、1945年と46年の穀物凶作、それを引き起こした悪天候、そして新しい文化(=漫画)の盛り上がりといったものがミックスされている。文化、創造への強い愛着は、時代が作ったのだろうか、それとも生来備わった性質だったのだろうか。義務教育終了後は家計を支えるべく働くことを期待されていた。そんな少年ヒトシの目に映る世界はどんなものだったのだろうか。

さて、ヒトシは優秀な学業成績によって奨学金を得、大学で教職免許を取得した。公立学校の教師として地方から上京し、同僚と結婚、東京の郊外に居を構えて3人の子供をもうけた。時代は高度経済成長を経て、バブル経済へと向かい始めていた。

このテキストは漫画文化について語るものではないが、時代の変遷を語る一つの軸として、引き続きその周辺を描写してみたい。1984年、11歳になるヒトシの長子、コダマ(私)の教室では人気漫画雑誌「ジャンプ」(4)が回し読みされていた。後に世界13カ国で翻訳され、合計2億7千万部以上を売り上げることになる「ドラゴンボール」の、最新のエピソードが毎週その雑誌で読めた。ライバル誌の「マガジン」(5)「サンデー」(6)も劣らず人気で、女の子たちは「りぼん」や「なかよし」(7)も読んでいた。つまり何冊かの漫画雑誌がクラスメートの間で回覧され、また連載作を再録した単行本も友人間で頻繁に貸し借りされた。漫画を原作としたテレビアニメーションも作られた。漫画の連載より少し遅れて進むその番組も、みなが毎週夢中になって見るものだった。同じコンテンツがゲーム、映画、おもちゃなどへ展開するメディアミックス戦略が本格化しはじめていた。

爛熟した漫画文化の中で、コダマは多くの素晴らしい書き手による創造的作品を享受した。リアルタイムで、そして少し時代を遡って。社会現象ともなった過度な教育熱の中で、コダマにとっての子供時代は決して居心地の良い時期ではなかったが、物質的、文化的には恵まれていた。

視点を過去へ振ってみる。1902年に生まれた私の母方の祖母は、子供の頃、数キロ離れた川へ水汲みにいくのが日課だった。進んだ考えの両親のもと、師範学校に進んで小学校教諭となったが、当時の慣例により見合いで結婚し、伴侶の考えに従って仕事を辞め、子育てに専念することになる。彼女が漫画を読んでいるのを見たことはない。彼女は新聞を読むのが好きだった。ちなみに、岡本一平(8)が日本初の漫画記者として朝日新聞社(9)社員になったのは、1912年、祖母が10歳の時だ。岡本は、風刺画、水墨画、挿絵、簡単な絵と解説、など、漫画という新しいジャンルのために様々なスタイルを試していた。つまり当時はまだ皆が一斉に取り組んでいるような、統一された漫画のスタイルは存在していなかった。

現代はどうか。2008年に生まれ、9歳になる私の甥は、毎月親に彼自身の「コロコロコミック」(10)を買ってもらっている。とは言え、彼は漫画よりゲームに夢中で、会うたびに「妖怪ウォッチ」(11)で集めた妖怪を見せてくれる。生まれた時からゲームデバイスやタブレットが身近な世代にとって、世界の見え方はまったく違うだろう。先日一緒に訪れた上海ディズニーランド(12)の、プロジェクションマッピングを駆使した最新型カリブの海賊で、私たちを乗せた船が海底に沈み、また海面へと浮かび上がるスペクタクルを彼はどこか醒めたふうに眺めていた。

同じ国に生まれ育った人々でさえ、この100年あまりの間にまったく違う子供時代を送っている。世界の違う場所においてはなおさらだろう。私たちの置かれた環境は一様ではなく、万人に共有されるような、単一の「子供時代」は存在しない。子供社会学者のアラン・プラウトは次のように語る。

“Childhood should be seen as […] a variety of complex hybrids constituted from heterogeneous materials and emergent through time. It is cultural, biological, social, individual, historical, technological, spatial, material, discursive … and more”. “「子ども」は、(・・・)異種混淆の素材で構成され、時間軸の中で立ち現れる、複雑なハイブリッドなのである。文化的であり、生物学的であり、社会的であり、個人的であり、歴史的であり、技術的であり、空間的であり、物質的であり、言説的であり・・・いくらでも続けられよう。”(13)

子供はハイブリッドだ。そして、子供に影響を与える各パーツもそれぞれハイブリッドだ。たとえばヒトシのパーツの一つである日本漫画の、その表現システムは世界の文化の中で形成された。古く中国から伝播した、輪郭で形を捉える絵の伝統の上に、西洋の漫画雑誌文化やアメリカのコミック・ストリップ、アニメーションの要素などが入り混じっている。それに漫画は、文学や映画などと同様に、書き手の頭の中を十分に表現できる媒体だ。「火の鳥」には手塚という書き手が学習した世界の異なる地域に関する見聞、身体や生命に対する具体的な知識(彼は医師免許を持っていた)、未来や宇宙に関する想像が混ざり合う。

そして各パーツは不変ではない。変化する。見て来たように、漫画は戦後生まれの子供たちの成長と共に拡大深化し、高度経済成長と共に産業としても大きな飛躍を遂げた。一方、1990年代のピーク時に650万部を売り上げたジャンプが、近年200万部を割り込むなど、現在、この文化は衰退の傾向を見せている。(14)

パッチワークのような私たちのアイデンティティ。そして構成要素である各パーツもパッチワークであり、また変化のダイナミズムの中にある。このパースペクティブによると、私たちの中には、私たちを構成する要素を通じて、古代、シルクロードの時代からインターネットの時代まで、流通したさまざまなイメージ、言説、記憶が折り重なり、反響し合っていることが想像されるだろう。

・・・

(1)学童社から発行されていた月刊雑誌。当時の少年向け雑誌は「漫画」を冠していても小説、記事などテキストの分量が多く、漫画はごく一部であった。

(2)手塚 治虫(てづか おさむ、1928年- 1989年)は、日本の漫画家。戦後ストーリー漫画の草分け的存在。また1963年に自作「鉄腕アトム」で日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズを制作し、現代まで続くテレビアニメーションのスタイルを打ち立てた。

(3)ヒトシの生まれた1946年から数年間、雑誌の創刊ブームが続き、出版は「活字が刷ってあれば、なんでも売れる」とまで言われるほどの活況を呈した。また1956年には出版社の発行する初の週刊誌が創刊されて週刊誌ブームが始まる。

(4)集英社から発行されている週刊漫画雑誌。1968年に前身の雑誌が月2回のペースで刊行され、1969年に週刊誌となって現在に至る。「キャプテン翼」「SLAM DUNK」「遊☆戯☆王」「ONE PIECE」「NARUTO -ナルト-」をはじめ数多くのヒット作を生み出す。

(5)講談社から発行されている週刊漫画雑誌。1959年創刊。「あしたのジョー」「巨人の星」「ミスター味っ子」「金田一少年の事件簿」などのヒット作を生み出す。

(6)小学館から発行されている週刊漫画雑誌。1959年創刊。「タッチ」「らんま1/2」「名探偵コナン」「MAJOR」などのヒット作を生み出す。

(7)「りぼん」(1955—)「なかよし」(1954—)は、それぞれ集英社、講談社から発行されている女児を対象にした月刊誌。

(8)岡本 一平(おかもと いっぺい、1886年- 1948年)は、20世紀初頭に人気を博した漫画家。現代漫画の父とも言われる。

(9)代表的な日本の全国紙の一つ。1879年創刊。

(10)小学館が発行する小学生向けの月刊漫画雑誌。1977年創刊。ゲームメーカー、玩具メーカーとタイアップした作品を掲載するなど、メディアミックス戦略が顕著に見られる。

(11)「妖怪ウォッチ」はニンテンドー3DS専用ゲームソフト。2013年ローンチ。メディアミックスが展開されており、甥もフィジカルなウォッチを持ち、メダルを集めているほか、「コロコロコミック」掲載の漫画を読み、テレビアニメを観覧している。「ポケモン」も同様だが、ゲームが先行して発表され、他のメディアがそれに合わせて制作されている。1980年代には漫画作品を出発点としたメディアミックスが主流だったことを考えると、メディアミックスという産業形態の前面化を見て取ることができるだろう。

(12)中国、上海に2016年開園。最新のテクノロジーを駆使したアトラクションを呼び物としている。

(13)Alan Prout, “Afterwords” in The Future of Childhood (Oxford: New York: RoutledgeFalmer, 2005), p.144

(14)もっとも、一つの文化の盛衰はもっと長い視点で観察されるべきで、ここではそのような傾向がみられるという指摘にとどめたい。

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