1999年のプーチン(三) キリエンコ、プリマコフ、そしてステパシン
エリツィン大統領は1998年8月23日、金融危機の深刻化を受けて、キリエンコ内閣の全閣僚を解任。首相代行及び首相候補としてチェルノムイルジン前首相を指名した。下院は共産党などの反対で首相の承認を二度否決。三度目の採決でも拒否する構えを示した。
そこで大統領は、最後の審議の前日、チェルノムイルジンに替えて、共産党との関係も悪くないプリマコフ外相代行を首相候補に指名。プリマコフは共産党のジュガーノフ委員長が代案の一つとして名前を挙げていたこともあり、9月11日、下院は同氏を新首相として承認した。
こうした経緯から、プリマコフ首相は社会主義系勢力から閣僚を多く登用せざるをえないのではないかともみられた。しかし、共産党は政権に深入りして責任を負うことには消極的で、組閣は結局中道色の強いものとなった。
この結果は、エリツィン大統領にとって反対勢力の要求を飲まされた「屈服」だったのか。それとも、初めからチェルノムイルジンを噛ませ犬に使った「狙い通り」だったのだろうか。
八面六臂のプリマコフ
エフゲニー・プリマコフはエリツィン大統領より一つ年上で、顎肉こそたるんでいるものの、顔色は健康そうで精力的に見えた。 ソ連時代には、共産党機関紙「プラウダ」の外国特派員などを経験し、事実上外交に関係する仕事をしていたようだ。
1985年、世界経済国際関係研究所(IMEMO)の所長に就任。
ソ連崩壊後は、КГБの対外諜報部門を分割して設立された対外情報局の長官になる。この点では、КГБを辞めたプーチンとは「すれちがい」の関係にあった。1996年1月、解任されたコズイレフ外相の後任になり、以後は外相としてエリツィン政権に携わっていた。
こうした経歴からは、外交の専門知識を武器に、時の権力下で安全な居所を見付ける、鋭敏な鼻と老獪な手腕を持った人柄が浮かぶ。焦眉の問題である経済政策に関しては、
事前の評判は全てこのようだったが、数ヶ月後には、
このように評価されるに至る。現実的な政務能力を十分に持った人物だったと言えるだろう。
大統領選挙へ虎視眈々
プリマコフ内閣が成立すると、もう2年を切った次期大統領選挙を睨んだ動きが顕在化してくる。この時点では、有力な大統領候補として、三人の名が挙がっていた。
レベジ知事は“政商”といわれた大資本家ベレゾフスキーと接近。ルシコフ市長は“中道左派”といわれジュガーノフ委員長との共闘もありえた。これら有力候補は、大統領の退陣を求める声を上げたり、支持勢力の結集を図る動きを見せ始める。
こうした中、憲法裁判所は11月5日、エリツィン大統領の三選出馬は憲法違反となるという判断を示し、次期大統領選挙は新人候補の争いになることが確定する。
これより前、エリツィン大統領は10月12日、風邪を理由として中央アジア歴訪を切り上げて急遽帰国。以後、翌年3月18日まで、肺炎や胃潰瘍で入退院を繰り返した。大統領の不在で、プリマコフ首相の存在感が高まり、次期大統領候補としての期待も出てくる。
しかし、自由生主義改革派の大統領にとって、共産党の支持をも受けるプリマコフ首相は、一時的に執権を委ねることはできても、後を任せられる存在ではなかったようだ。
こうした流れで、大統領は結局、1999年5月12日にプリマコフ首相を解任。首相代行及び次期首相候補には、ステパシン第一副首相蒹内相を指名した。(続く)
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