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1999年のプーチン(二) 土壇場のエリツィン

ウラジーミル・プーチンは、一介の対外諜報員に過ぎなかったが、破綻寸前のКГБを脱出して、サンクトペテルブルク市幹部となり、さらにはエリツィン政権の高官へと進んだ。ソ連末期からの自由主義革命とも呼ぶべき急激な変化の波に乗ることができた、幸運な成功者だったと言える。

この革命は、このように上昇して権力を把み、あるいは富裕になる者を輩出する一方、大多数のロシア市民は、むしろ不幸な失敗者の地位に陥れられていったのである。どうしてこうなったのだろうか。

エリツィン政権のロシア

ソ連末期には、何かを変えなければ立ち行かなくなるという意識が、広く人々の間に高まっていた。ミハイル・ゴルバチョフはソ連体制の社会民主主義化を模索したが、そのために導入された自由選挙と複数政党制は、自由主義急進派に勢いを与えた。

このような流れに乗ってロシア共和国大統領となったボリス・エリツィンは、独立へと急いだウクライナとともに、ゴルバチョフにとって最大の障害となり、ついにソ連体制を崩壊させた。エリツィン政権の新生ロシアは、経済の自由化を一層推進した。サプチャク市長のサンクトペテルブルクもその一翼を担い、そこでプーチンも働いていた。

しかし、未熟な自由経済の急激な進展は、多くの人に富を与えない。ごく一部の幸運な成功者だけが富貴になり、甚しきは政商となって政権に容喙し、富裕層や大企業からの徴税の強化を妨げ、そのため富の再分配が進まず、貧しい者を一層貧しくする傾向を生んだ。やがて給料や年金の遅配が続発し、受け取れてさえも最低限の生活を充たすに足りないという人が少なからず出た。

社会が経済的に二極化するということは、民主制の運営をも困難にする。民主制には中間層の厚みが必要だという。貧富の格差が広がり、上はその地位を利用して富を失う危険をなくし、下は力を奪われ上昇する機会が得られなくなる。こうなると、全ての人が等しく参加し、公的な問題について討議し決定すべきだという意識が持てなくなってくる。

要するにロシア社会は、共産主義の矛盾からは脱したのだが、かつて共産主義によって克服しようとした自由主義の矛盾に、再び直面したのである。

末期のエリツィン政権

それでも「あの頃よりは良い」のか、あるいは「明日はもう少し良くなる」と希望を持つのか、それとも「あの頃の方がマシだった」と思うのか。

エリツィン大統領は1996年に再選されたが、状況は簡単ではなかった。下院には安定した政権与党が無く、新興党派の存在は流動的で、ロシア共産党はなお有力な反対勢力だった(下院議員は有権者の直接選挙によったが、上院議員は連邦構成主体〔州や自治区など〕の首長らが兼任した)。

98年3月、エリツィン大統領は突如、それまで約5年に亘って政権を支えてきたチェルノムイルジン首相を解任した。チェルノムイルジンは、共産党とも一定の妥協ができる穏健改革派だった。解任の表向きの理由はともかく、この頃から次の選挙を睨んだ駆け引きが始まったのである。下院選挙は99年末、大統領選挙は2000年夏に見込まれていた。

当時、ロシア連邦憲法は大統領の任期を二期までに制限していたが、

「三選を禁じた憲法は九三年制定のため、九六年に成立した現政権はまだ一期目と解釈できる」(ヤストルジェムブスキー報道官)との抜け道もあり、憲法規定は障害にならないとみられている。

北海道新聞1998年7月〔モスクワ4日〕《「3選出馬」消えぬ可能性 憲法規定に抜け穴》

つまり第一期はソ連時代に就任した「ロシア共和国大統領」だったのであり、「ロシア連邦大統領」としては二選されていないと考えれば、もう一度立候補することもありえた。

ただしエリツィンにとって最大の障害は、憲法よりもむしろ自身の健康状態だった。すでに大統領就任前から患っていた心臓病で96年11月にバイパス手術を受けたし、97年1月には肺炎に罹って長期療養を余儀なくされもした。言動から認知機能の問題を疑うような憶測もされていた。

ルーブル危機へ

新たに首相代行に指名されたキリエンコは、いかにも経験ある政治家といった風貌の前任者とは対照的に、30代半ばで若々しく、政治畑の出身ではないという点ではプーチンと同じだった。

ニジェゴロド州で銀行頭取や石油会社社長を経験。(中略)三月にエリツィン大統領から首相指名を受けるまで、政治的には全く無名の存在だった。

北海道新聞1998年7月《野心芽生え始めた知日派》

下院は共産党などの反対で、新首相の承認を二度拒んだ。共産党は三度目の採決に向けても反対する方針を決めていたが、三度否決されると下院は解散することになっているため、これを嫌った議員が投票で離反した。

ロシア下院(定数四五〇)は二十四日、エリツィン大統領が首相に指名したキリエンコ首相代行について三度目の採決を行い、賛成二五一、反対二五で賛成票が定数の過半数(二二六)を上回り、承認した。百三十人の議員は投票用紙を受け取らず、棄権した。

北海道新聞1998年4月〔モスクワ24日〕《ロシア下院 キリエンコ新首相承認 解散回避 大統領、土壇場で勝利》

エリツィン大統領は清新さと経済の実務に強いという印象を持つ新首相に、自由主義的経済改革のより強力な推進を期待したように見えた。しかし、国家財政と経済の問題や金融危機は深刻さを増して、その進行を阻んだ。政治家として実績を積むはずだった7月の訪日は、橋本竜太郎首相が直前の参院選の結果を受けて辞任を決めてしまったため、評判は上がらなかった。

キリエンコ首相の訪日について、ロシアのマスコミ各社に共通する見方は、「ロシア首相の史上初の公式訪日は、ひどいタイミングとなった」(セボードニャ紙)との言葉に尽きる。(中略)
……選挙の結果、即座に首相が辞任表明するという特殊な日本の政治的伝統に、ロシア側が意表を突かれたのは間違いないようだ。

北海道新聞1998年7月《「ひどいタイミング」 ロシア各紙 訪日の意義薄かった》

国際的な金融危機の煽りも受けて、8月17日には通貨ルーブルの切り下げに追い込まれ、経済はさらに悪化した。(続く)

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