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1999年のプーチン(六・了) エリツィンはなぜプーチンを選んだのか


2000年のロシア連邦大統領選挙

ロシアのエリツィン大統領は三十一日、テレビを通して演説し「任期満了前に大統領を辞めることにした」と述べ、同日付で辞任したことを表明、大統領代行にプチン首相を任命する大統領令に署名したことを明らかにした。

北海道新聞2000年1月1日〔モスクワ31日〕《エリツィン大統領辞任 プチン首相が代行 3月に選挙》

コンピュータの2000年問題が注目を集めていた西暦2000年1月1日、北海道新聞朝刊一面の大見出しは全く意外なものになった。

エリツィン大統領辞任を伝えた2000年1月1日の北海道新聞一面

エリツィン大統領は99年12月31日を以って辞任。プーチンが大統領代行になったのである。これにより、約半年後に予定されていた大統領選挙は、3月26日投票と大幅に繰り上げられることになった。

プーチンはこの時期から50〜60%前後の支持率を維持。唯一の不安は、チェチェン紛争で何か失態があればということだったが、この面でも大過はなかった。チェチェン情勢について米国などは徐々に非難をしはじめたが、直前までユーゴスラビアで何をしていたかを考えれば説得力は全く無く、ロシア市民の多くに対しては「ああいう西側から国を守るためにも強い指導者が必要」と思わせただけだっただろう。

プリマコフ元首相は、下院選投票前には出馬すると発言していたが、2月7日に断念することを表明。レベジ知事も立候補せず、ルシコフ市長も3月15日になってプーチン支持に回った。

共産党は1月15日にはジュガーノフ委員長を擁立することを決定。唯一の有力な対立候補と言えたが、支持率はせいぜい20%台。経済は混乱を収拾するため政策的介入を強めざるを得ない状況で、社民主義的なジュガーノフの政策は現政権との間に実質的な違いが少なく、チェチェン問題での強硬姿勢にも反対する理由がなかった。

さらにプーチンが政策を明確に公表しなかったことでも争点が曖昧になり、選挙は人気投票の様相を呈した。プーチン当選は当然とみられ、焦点は一回目の投票で過半数の票を得て決まるか、決選投票に持ち込まれるかということだった。

中央選管が二十七日午後二時(日本時間同七時)発表した公式集計(開票率九五・五一%)によると、プーチン氏の得票率は五二・六四%、二位のジュガーノフ共産党委員長二九・三四%、(中略)。投票率は六八・八八%だった。

北海道新聞2000年3月〔モスクワ27日〕《プーチン氏当選を宣言 中央選管》

結果は初回でプーチンの当選が決定、5月7日に正式に就任する運びとなった。

エリツィンはどう引退を構想したのか

99年8月に、エリツィン大統領はプーチンを首相代行に任命したとき、後継候補であるとも明言した。これはキリエンコやステパシンなどの場合にはなかったことで、この点から考えても、エリツィンは早い時期からプーチンを次期大統領として見込んでいたように思える。

エリツィン政権の第二期に首相を務めたチェルノムイルジン、キリエンコ、プリマコフ、そしてステパシンといった人物は、いずれも大統領になりうる素質や能力を持っていた。その中から、エリツィンはなぜプーチンを選んだのだろうか。

エリツィンが引退後の安全を図るために後継者を選んでいるという見方は、当時からあったように記憶している。実際、プーチンは大統領代行となった直後、エリツィンに特権を与えている。

プチン代行は退任したエリツィン氏の身分を保障する大統領代行令に署名。エリツィン氏の不逮捕特権のほか、大統領給与の七五%の終身年金の支給、医療費の全額国家負担、それに国有別荘を生涯利用できる権利―などを認めたものだ。

北海道新聞2000年1月3日〔モスクワ2日〕《エリツィン氏 終身年金で身分保障 別邸で静かに新年祝う》

エリツィンは私利私欲に執着して老後の保身を求め、その実現を約束したのがプーチンだったのだろうか。

エリツィンも人の子だから、欲望というものは当然あるだろう。しかしそれだけではなく、おそらくエリツィンの意識の中では、自身が安全を得られることと、自由主義のロシア国家が存続することが一体になっていたのではないか。私益と国益を同一に感じてしまうことは権力者にはありがちなことだし、一つの国家を創始した為政者としてはなおさらありうべきことだ。

確かにもし引退したエリツィンに対して、弾劾案で挙げられたような「ソ連の解体」などを犯罪として問うような政権が出来た場合、そこに自由主義体制は存在しえなくなるだろう。どうしてもそれは阻止せねばならない。エリツィンが辞任の際に語った次の言葉を引用しよう。

私は古い全体主義的体制から一足飛びで輝かしい文明的未来へ移行できると信じたができなかった。私は無邪気過ぎたようだ。

北海道新聞2000年1月1日〔モスクワ31日共同〕《「主要なことを達成」演説要旨》

引退を決意したエリツィンは、道半ばの自由主義改革が将来成就するという希望を必要としたのだろう。多少の足踏みは止むを得ないとしても、前進の基調を崩してはならない。この点からいってチェルノムイルジンとプリマコフは、手駒として利用するだけの存在であって、後継候補ではない。この二人は調整するのが得意であるだけに、強力な改革者にはなりえないし、何より狡賢い古狸だ。

キリエンコは良好な素質は持っているが、まだ若すぎて経験を積む必要があるし、意志の強さに不安がある。ステパシンなら意志の強さは、第一次チェチェン紛争で強硬策の主張を通し、そのために一度は失職したほどだが、その強さは何かのためにするというより、むしろ自我を貫く方へ発揮される。これでは後を任せられない。

その点でもプーチンは好ましく思われる。以前はあのサプチャクの所で自由主義改革のために寸暇も惜しむ働きをしていたし、政権の陣営に加わってからも懐刀となって忠実に勤めてきた。大統領の座にまで引き上げてやれば、また恩に感じて励むだろうし、政治経験が浅いために助言を必要とするから、後見してやれば期待通りの後継体制を作ることができそうだ。

おそらくはこのような考え方で、エリツィンはプーチンを選んだのではないだろうか。98年3月以降の相次ぐ首相更迭は、場当たり的、意味不明、混乱を招くだけという評判が当時としてはあったが、むしろ今にして思えば、プーチンに政権を渡すという結論から逆算した計画があったように見える。

プーチンの天性は国家元首に向いていたのか

ではプーチンにとっては、こうして大統領に仕立てられたことは、どういうことだったのだろうか。想像するしかないが、少し考えてみたい。

プーチンはその前半生の経歴を見る限り、権力の座を目指してきたという人物ではないように思える。つまり大統領のように指令を出す側に立つより、むしろ使命を受けて奔走する方が生き生きとする性格である。エリツィンのように政敵との駆け引きを繰り広げ、一時は負けたように見せても、最後には狙い通りの結果を勝ち取るというような、政治家としての素質には欠けている。

1999年のプーチンは、もし自分が大統領になっても、エリツィンの後見を受け、エリツィンの指名する助言者を頼りにすれば良いと思っていたかもしれない。しかし2000年、いざ大統領の座に登ってみると、エリツィンはもう何の実権も持たないただの老いた病人だし、周囲の人間も信頼できるのかどうか、分からなくなった。

政界を見渡してみても、ジュガーノフなどは立場が固定していていいが、ルシコフやプリマコフ、それにベレゾフスキーなど、時々の情勢に応じて叛服すること常無しという腹黒い人間が多く、いつ誰に寝首を掻かれるかも知れたものではない。こういう連中に対して、エリツィンほど巧みに立ち回る能力がプーチンにはない。どのように自身を守ればいいのだろうか。

大統領になったプーチンの置かれた状況は、歴史上に類例を求めると、16世紀の“雷帝”イヴァン四世(織田信長とほぼ同時期の人物である)と似た所がある。

イヴァンは父が早く死んだために、三歳でモスクワ大公の地位を継いだので、大貴族や太后は実権の掌握をめぐって陰湿な争いをした。イヴァンはその恐怖の中で育った。十六歳になると正式に即位し、ツァーリと称したが、のちのロマノフ朝の皇帝のような絶対的な権威はまだ無い。ともすると大貴族に首を取られる恐れさえある。

未熟なまま恐怖によって教育されたイヴァンにできることは、ともかくその手にある権力を振るうことである。内では反対者を実力で弾圧する。外では西に対してはポーランドなどに圧迫されて成功しなかったが、東では宿敵のタタール人に対して、ロシアでもようやく鉄砲が活用されるようになったため(ちょうど長篠のように)、戦えば勝てるという優位が確立され(鉄砲以前は遊牧民の操る弓矢こそ地上最強の兵器だった)、皇権を高めるのに効果があった。

大統領になったばかりのプーチンもまた、政治家としては未熟だった。そもそも誰か主人に仕え、主人のために働くという所に、その天賦の才能があるのだと私は見る。これまではサプチャクやエリツィンといった主人があり、その思想を実行するために身を砕いてきたので、自身の思想というものはあまり持っていない。

だから党派色が薄いという所も、有権者が各々の理想や願望を投影できて、人気を高めた要因だっただろう。しかし無思想であるということは、自立すれば力の論理に流されやすい。頼りになるものはかつて訓練された諜報能力と、今その手に握らされた強大な大統領権限である。

エリツィンも1993年の旧最高会議ビル制圧のような実力行使に出ることはあったが、そうした手法は自由主義改革の方向によって、かなり抑制されていた。プーチン政権はエリツィン流の自由主義を継承する形で始まったとはいえ、強引な手法をより多く用い、政治や言論の面ではむしろ反自由主義的な方向を持つようになったのは、その天性の素質に合わない地位を与えられたことによると言えるのではないだろうか。

2000年のプーチン

しかし大統領になったばかりのプーチンは、すぐさま“雷帝”のようになったわけでもない。特に外交の面では、古臭いことの多いロシアの政治とは違った、もっと公正公平な国際秩序があることを本気で期待していたような節がある。

大統領に就任した直後、プーチンが取り組んだ外交上の最初の重要な課題は、米ソ間で1972年に締結された弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の修正を求める米国のクリントン政権との交渉だった。

会談では、両国間で結ばれている弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の修正問題が大きな焦点となる。米国が、本土ミサイル防衛(NMD)構想実現のために、同条約修正を求めているのに対し、ロシアが「軍拡競争につながる」と強く反発しているためだ。

北海道新聞2000年5月24日《4日から首脳会談 焦点はABM》

米国独行の NMD 構想に対して、プーチン政権は「共同ミサイル防衛」構想を提案。

この提案は、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の修正は不要で、しかも「米国だけでなく、ロシア、欧州も防衛できる」と指摘。「ABM制限条約修正問題が袋小路に入ることを回避できる」と強調している。

北海道新聞2000年6月〔モスクワ3日〕《迎撃ミサイル基地「敵国」周辺に設置 ロシア大統領の共同防衛構想》

NMD に関しては欧米諸国からも反対や懸念する意見が出ており、ロシア案は欧州も巻き込んで、広汎な防衛網を構築することで、軍拡競争の危険を避けようとするものだった。そもそもこの問題は、相手国に不利益なことで条約の修正を求めた米国の方が無理筋であり、ロシア案はそれ自体合理的である。だが米国はプーチンに何か「裏」があるのではないかと勘繰った。

米本土ミサイル防衛(NMD)構想を推進する米国側は、コーエン国防長官が「欧州諸国と米国を分断する戦術にすぎない可能性もある」と警戒感を示したと伝えられ、米ロの構想をめぐるNATO内の足並み調整が焦点になりそうだ。

北海道新聞2000年6月〔ブリュッセル8日共同〕《ミサイル防衛 米ロ構想へどう対応 NATO国防相会議始まる》

さてプーチンの腹にあったのは、せいぜい「軍拡競争で潰れたソ連の轍を踏むことは避けたい」という程度のことだったのではないかと私は見る。むしろその提案があまりにも正直な申し出だったために、舌が二枚も三枚も生えたような欧米のプロ政治家にはかえって理解できなかったのではないだろうか。

もし「共同」構想が実現していれば、冷戦終結以後模索された、米欧ロの協調による安全保障体制が確立され、もっと安心のできる国際秩序が形成されていた可能性がある。この「もし」は今こそ考えてみる価値のあるものだ。

実際には、末期のクリントン政権には交渉をまとめる能力は残されておらず、代わったブッシュ政権はより独善的で、ABM 制限条約からの一方的脱退へ奔った。これは米欧の安保体制からロシアを排除することを意味し、それを東へ東へと拡大していけば、やがて間に挟まれるウクライナを危険な位置に立たせることになる。軍拡競争とは結局戦争を予定することに他ならない。

プーチン大統領としては国際社会への期待を裏切られ、米国の脅威を感じさせられたことで、内外ともにより強硬な姿勢を示し、強引な手法を使う方向を持つしかなくなった。そしてそうすればするほど、今度は自分の老後に罪を問われるのが心配になり、権力を手放すことができず、向かない仕事を続け、一層きわどい手に頼るという自縄自縛の悪循環に陥っている。

2024年の戦争と世界

当初米欧との協調を求めたプーチン政権の外交は、ブッシュ政権の軍事政策に遭って挫折させられ、日本を含む“西側”諸国は米国の方向に引きずられてきた。

二十世紀前半に両度の大戦を経験したこの世界では、その反省から国連を中心に置いて法的秩序に基く国際社会を形成すべく努力が払われてきたが、米国の態度は明らかにこの努力を裏切り、むしろ実力による秩序を作ろうとするものだった。実力さえあれば独断専行で軍事制裁やら戦争をしても咎められないという実例を示してしまったわけで、それを今さら他の国には真似をするなと言っても無理である。

今日のウクライナに対するロシアの攻撃は、米国がアフガニスタンやイラクなどを標的に国際法秩序を踏み荒らした後だからできた犯罪であり、イスラエルもまた同じである。今後より多くの国が、米国を模範として軍事行動を起こすだろう。

米国の軍事的肥大は、欧州では NATO の拙速な拡大という形で表れた。米国主導の軍事ブロックがロシアの目と鼻の先まで迫ろうとするのを見て、プーチンは「ソ連の解体は間違いだった」との考えに至ったようだが、これには一種自己否定の感じがある。

ゴルバチョフの社民主義改革を最終的に阻み、ソ連を解体した人物は、当時ロシア大統領のエリツィン、ベラルーシ最高会議議長のシュシケビッチ、ウクライナ大統領のクラフチュクである。彼らがゴルバチョフの方向を理解し、協力していれば、ソ連は存続した可能性がある。そうなればエリツィンは一介のソ連構成共和国大統領で終わり、プーチンもせいぜい高級官僚くらいで止まっていたと想像できる。

だからソ連が消滅しなければ大統領にはならなかったはずのプーチンが、それを否定することで、「強い権力者」であることしかできなくなった自身に肯定を得るという歪みがここにある。そしてこの歪みが、プーチン個人の内面だけの問題ではなく、世界全体が抱えた歪みとつながっているという所に、深く考えるべきものがあるように思われる。(了)

※これまで直接引用したの以外にも、多くの事実関係や状況の確認を、当時の北海道新聞に掲載された記事に依りました。これらの記事を執筆された記者のみなさんに感謝します。

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