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1999年のプーチン(五) 無名の首相プーチン

この時期、クリントン政権の米国は、米国優位の国際秩序を作ろうとする動きを見せていた。98年の12月には、国連の手続きを無視して、英国とともにイラクを攻撃。99年3月からは、北大西洋条約機構(NATO)軍を率いて、やはり国連の意思決定を経ずに、ユーゴスラビア連邦への空爆に出た。

ユーゴスラビアへの攻撃は、同国の多数派セルビア人とモンテネグロ人の父母に生まれたミロシェビッチ大統領が、コソボ自治州に多く住む少数派アルバニア人を弾圧していることを理由として“人道戦争”を掲げて行われた。しかし、これはかえって民族対立を煽り、大量の難民を発生させ、また民間人を含む多くの死傷者を出した。

こうした事実は、NATO 諸国にさえ波風を立てたし、セルビア人やモンテングロ人と同じスラブ民族に属するロシア人やウクライナ人の間にはなおさら、西側に対する反感を昂揚させる結果を招いた。

99年6月、ミロシェビッチ大統領が和平案を受諾し、コソボ紛争は一応落ち着くこととなったが、これと入れ替わるかのように、ロシア南部ではチェチェン問題が再燃。チェチェン共和国(「共和国」は「ロシア連邦構成主体〔州や自治管区など〕」の単位の一つ)独立派に、中央アジアで勢力を伸ばしてきたいわゆるイスラム武装勢力が関与し、ロシアの軍事施設を攻撃する事件が発生。第二次チェチェン紛争に発展した。

二つの軍事的事態は、ロシア人の防衛意識を刺戟し、強い権力者を願望する気分を高めさせる条件が整いつつある時だった。

プーチン、突然の登場

ロシアでは、下院選挙の告示を目前に控えた8月4日、モスクワのルシコフ市長が率いる政党「祖国」と、地方の有力政治家で作る団体「全ロシア」が、選挙連合「祖国・全ロシア」を結成することで合意。共産党に匹敵する勢力となり、下院第一党の地位を獲得する可能性も考えられた。

これを受けるかのように、エリツィン大統領は8月9日、ステパシン内閣の全閣僚を解任。政権側は下院選に向けた勢力の形成が遅れており、この責任による更迭ともみられた。大統領は首相代行及び次期首相候補として、ウラジーミル・プーチン連邦保安局長官兼安全保障会議書記を指名。さらに、大統領はプーチンが後継大統領候補だと明言もした。

プーチンは、首相就任以前から国際的にも名を知られていたプリマコフやステパシンとは異なり、これまで全く無名の人物だった。連邦保安局長官とは、日本でいえば公安委員長のようなものだと考えて良ければ、ロシア国内でもあまり報道に名前の出る存在ではなかったかもしれない。

手許に残っている記事をざっと見た限りでは、これより前にプーチンの名が出たものは、次の一つしか見付からなかった(当時はロシア語のアクセントのある音節〔長めに発音する〕を長音に写すかどうかの違いで、日本の報道では「プチン」「プーチン」両様の音訳が混在していた)。

大統領はこれまでステパシン内相やプチン連邦保安局長官らと協議。対策を講じる姿勢を見せているが、いずれの問題も収拾には至らず、このままでは大統領の執務能力を問う声がますます強まりかねない。

北海道新聞1998年11月〔モスクワ21日共同〕《ロシア・女性議員暗殺事件 治安対策 野党批判へ》

8月16日、下院は初回の採決で、プーチン首相の任命を承認。

ロシア下院(定数四五〇)は十六日、プチン首相代行(四六)の首相承認審議を行い、採決の結果、可決に必要な定数の過半数(二二六)を上回る賛成二三三、反対八四、棄権一七(速報値)で承認した。最大会派の共産党などがエリツィン大統領との正面対決より、下院選への準備を優先したためだ。

北海道新聞1999年8月17日〔モスクワ16日〕《ロシア下院 プチン新首相を承認 第1回投票で過半数》

下院選挙は8月19日に告示され、12月19日の投票へ向けて選挙戦が始まる。大統領の陣営はまだプーチン首相を旗頭とする姿勢を示しただけだったが、一方で共産党も、友党ともいえる農業党の一部が分裂してルシコフ派に参加するなど苦境にあった。

下院選挙の帰趨

ルシコフ市長の「祖国・全ロシア」はプリマコフ元首相の参加も得て勢い付く一方、共産党と人民権力、農業党の余りなどは選挙連合「共産党」の結成を9月4日に決定。政権の肝煎りで、ショイグ非常事態相を代表とする「統一」の旗揚げが発表されたのは27日まで遅れた。

「統一」の伸長は、プーチン首相の人気にかかっていたが、この9月には首都モスクワを含む各地で、チェチェン紛争に関係する爆弾事件が相次いで発生。首相の強硬姿勢に対する支持が上昇していく。10月9日には、エリツィン大統領が高熱を発して入院。以後入退院や静養を繰り返す状況となったことで、首相が存在感を増すこととなる。

「祖国・全ロシア」は、政権側と共産党の両方にとって邪魔な存在となり、挟み撃ちを受けて次第に支持率を落とした。共産党は安定した支持層を維持。「統一」は11月下旬頃になると、プーチン人気を背景に急伸した。

選挙戦は経済危機と武力衝突という焦眉の課題を前にして、政策的には争点に乏しかった。眼前の問題を切り抜けるための現実的な解法に選択の幅は小さいからで、そのため現に対処を担当している側に有利な状況だった。問題は下院に確立された政権与党がこれまで存在しなかったことで、「統一」がその受け皿になれるのかどうかが問われたと言える。

投票は12月19日に行われた。

政権与党「統一」の大躍進という劇的な結末となったロシア下院選は、勝者と敗者の明暗をくっきりと浮き彫りにした。最大の主役は、なんといっても、次期大統領候補ナンバーワンに躍り出たプチン首相(四七)だ。

北海道新聞1999年12月21日〔モスクワ20日〕《「強硬」貫き「統一」躍進 プチン人気くっきり 「全ロシア」プリマコフ氏早くもすり寄る?》

選挙の結果、共産党は議席を伸ばせなかったとはいえ、四分の一程度は確保。第二党は「統一」が獲得。その地位を逃した「祖国・全ロシア」はもとの三つの勢力に分裂する。しかし実は120議席を超える無所属議員が最大勢力であり、もしその大半が風を望んで「統一」側の会派に靡けば、強力な与党が形成される可能性もあるという情勢となった。

 政権与党には「統一」と「右派連合」、「ジリノフスキー連合」の計百十八議席に加えて、中道連合から事実上、分裂する「全ロシア」が加わる見通しだ。
 さらに、無所属議員の多くも政権側に回ることが予想され、政権側は共産党など反政権側政党の議席を上回り、過半数となる可能性も出ている。

北海道新聞1999年12月〔モスクワ29日〕《政権優位 固まる ロシア下院選 議席数が確定》

8月以前には誰も予想しなかったことが起きたのだ。

下院選は終わり、ロシア政界は半年後の大統領選挙へ向けて、攻防を激化させる前の、静かな年末年始となるはずだった。(続く)

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