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1999年のプーチン(四) エリツィン、共産党との対決
この当時、ロシア共産党は前回の下院選挙で躍進し、最大会派になったとはいえ、占める議席は定数の四分の一強に過ぎない。この事実は、共産党に対する支持は消極的なものであり、国家社会主義体制への後戻りはありえないという認識が、ロシア市民の間に広く行われていたことを示しているように見える。
ジュガーノフ委員長ら共産党の指導部は求心力を高めることができず、内部は強硬派と穏健派が綱引きをして必ずしも調和しない。事あるごとに対決姿勢を示しても、政権から揺さぶりを受けると弱腰を露呈するのが常だった。
キリエンコ首相任命の審議では反対を貫けず、プリマコフ首相の承認では要求を受け容れさせたように見えて、結果的に首尾よく矛先をかわされたとも言える。
大統領弾劾問題とステパシン起用
1999年の春、共産党などの反対勢力は、エリツィン大統領に対する弾劾手続きに向けた動きを本格化する。弾劾の理由は、次の五つの項目を大統領による重大な犯罪とみなすものだった。
ソビエト連邦の解体
旧最高会議に対する武力制圧(1993年)
第一次チェチェン紛争の責任(1994年)
軍を弱体化させたこと
生活環境の悪化により多数の国民を死なせたこと
このうち国民の死について説明が必要かもしれないから、次の記事を引用しておく。
米ロの昨年の共同調査では、一九九〇年から五年間のロシア男性の平均寿命は、五七・七歳。(中略)だが、九〇年以前のロシア男性の平均寿命は、六歳多い六三・八歳だった。
寿命の大幅な短縮、これは「昔の方が良かった」と思わせる重大な理由となりうるだろう。
エリツィン大統領が妥協的なプリマコフ内閣を終わりにし、より改革的とみられるステパシンを首相代行に指名したことは、弾劾の提起に対決する姿勢を闡明した形になる。
弾劾手続きの開始には、下院の三分の二以上の賛成が必要で、共産党などの社会主義系党派が結束できたとしても半数にも足りず、その他の勢力からの賛同がなければならない。それも首相解任で追い風が吹いたとみられた。
最終日の十五日に採決に入るが、下院が支持していたプリマコフ首相解任への反発で、カギを握る中間派、無所属議員の多くが弾劾開始賛成に回るとみられ、可決の可能性が濃厚となっている。
この下院の決議が通ったとしても、まだ最高裁判所、憲法裁判所、それに上院での手続きがあり、実際に大統領が失職する可能性は低かった。しかし経済や社会の混乱に加え、政商との癒着や汚職疑惑などで厳しい目を向けられている大統領には、それでもかなりの痛手となるし、年末の下院選や来年の大統領選に向けて、反対勢力に勢いを与えることにもなる。
両選挙の結果次第では、権力を手放したあとで、再び“犯罪”を追求されるということも、ボリス・エリツィンにとっては差し迫った恐れだっただろう。大統領はここでどうしても勝たねばならなかった。
インタファクス通信によると(中略)採決に参加したのは現員四百四十一議員(欠員九)のうち三百四十八人で、約二割の議員が欠席、可決に必要な定数の三分の二の三百票以上が集まらず否決された。
(中略)……エリツィン大統領が「国内政治の安定」などを理由に、猛烈な切り崩し工作に入ったとされる。(中略)……大統領は下院の活動停止など、非常手段に訴える可能性もあり、弾劾に賛成する方針を決めていた左派の人民権力、農業党議員からも、かなりの欠席者が出たもよう。
蓋を開けてみれば弾劾理由の五項目は全て否決された。続くステパシン首相の承認審議でも、野党は一回も拒否することができなかった。
ロシア下院(定数四五〇)は十九日、ステパシン首相代行(四七)の新首相承認審議を行い、(中略)承認に必要な定数の過半数(二二六)を大きく上回る多数で可決した。……
(中略)……採決では与党系会派「われらの家ロシア」、極右・自由民主党、中間会派「ロシアの地方」が賛成。穏健改革派「ヤブロコ」と、共産党、人民権力、農業党の左派三会派は自由投票にしたが、多くが賛成に回った。
強い姿勢を貫けなかった共産党は、かえって分裂も懸念される状態となる。
最悪の場合、共産党は強硬派を中心に党分裂の事態に及ぶことも懸念され、十二月の選挙に向け体勢立て直しが急務となった。
ステパシン、切り札か当て馬か
セルゲイ・ステパシンは1952年3月、中国の旅順で生まれた。73年にソ連内務省高等政治学校を卒業。軍事政治アカデミー、内務省軍などを経験し、90年の選挙でロシア共和国人民代議員に選出された。
新生ロシアでは94年に旧連邦防諜局(のちの連邦保安局)長官を務めている。94年〜95年の第一次チェチェン紛争では、強硬策を主張、実行し、タカ派として知られていた。
プーチンはこの時、連邦保安局長官蒹安全保障会議書記になっていた。ステパシンは同じ年の10月に生まれたプーチンより、一歩先を行く経歴を歩んでいることになる。
エリツィン大統領にとって、ステパシンの起用はどんな意味を持っていたのだろうか。首相代行に任命された時には、
共産党にも支持されるプリマコフ前首相に比べれば改革派でもあり、大統領にとっては、政局混迷時に議会ににらみが利く人物として最後まで温存してきた“切り札”だ。
という記事が出ている。他方、弾劾開始否決時には、
しかし、ステパシン氏は、弾劾問題をめぐる下院との駆け引き用の“当て馬”にすぎないとの見方もあり、ロシア政界では「大統領はほかに意中の首相候補を温存しているのではないか」との憶測が飛び交っている。
ともいわれた。
結果的には、ステパシン首相の承認が一回で通ったため、前回のように首相候補を差し替える機会はなかった。だがステパシン首相は結局、さしたる働きもないまま、わずか三ヶ月足らずで更迭されることになる。もしエリツィン大統領が、早い時期からプーチンこそ“切り札”として手駒に置いていたとすれば、ステパシンは好機を待つための“捨て駒”にされたことになる。
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