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1999年のプーチン(一) 1998年までのプーチン

1999年8月9日、エリツィン大統領がステパシン首相を解任したとき、首相代行に指名されたウラジーミル・プーチンは、政治家としては全く無名だった。というよりまず、プーチンはいわゆる政治家ではなかった。

この知られざる人物が俄かに注目を集め、首相代行から首相、大統領代行、そして大統領選挙へと駒を進める中、新聞はその経歴や人柄を記事にして読者の関心に応えた。

ここでは、当時の新聞記事を史料として、プーチン登場前後の状況を記述する(参照記事は全て北海道新聞に掲載されたもの)。

ソ連時代

ウラジーミル・プーチンは、旧ソ連時代の1952年10月、サンクトペテルブルクに生まれた(ドイツ語風の名を持つこの街は、ロシア帝国黄金期の18世紀初頭、ピョートル大帝によって建設された、当時最先端の計画都市だった。ソ連時代にはレーニンの名を冠し、レニングラートというロシア語風の名に改められていた)。

1975年、レニングラート大学法学部を卒業し、かねての志望を叶え国家保安委員会(КГБ)に入り、対外情報部門に勤め、西側から訪問する記者や学者、企業家などと接触し、旧西ドイツ関連の情報を収集していた。85年から5年間は旧東ドイツに赴任。協力者の勧誘工作を担当し、その間に大尉から中佐に昇進した。

東ドイツでの活動については、当時のドレスデン市長による“あまり有能なスパイではなかった”という否定的な評価(2000年1月〔ベルリン8日共同〕《「プチン氏は2流スパイ」独紙報道》)と、直属の上司からの“五年で二階級昇進は珍しい”という肯定的なもの(2000年2月22日《プーチン氏の実像は― 徹底した合理主義者 不気味さを恐れる声も》)がある。

ゴルバチョフ政権

プーチンが東ドイツへ赴任した年に、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、国家元首となった。ゴルバチョフは、硬直化した国家社会主義体制に対する改革派として登場した。

レーニンによって創始されスターリンによって確立されたソ連の国家社会主義体制は、産業革命に大きく乗り遅れた経済を発達させる上で、70年ごろまでは確かに効果があったように見える。しかし、そのガチガチの計画性がやがて足枷となり、米国との軍備拡張競争も重石となっていた。

計画経済の矛盾を解消するために、中華人民共和国は経済にだけ部分的自由主義を認めながら、政治的には反自由主義を貫いたのに対して、ゴルバチョフの「ペレストロイカとグラスノスチ」は、政治と経済の両面に自由主義を導入しようとした。とはいえゴルバチョフは自由主義者ではなく、共産主義(急進的社会主義)以前の穏健な社会主義を志向し、いわゆる社会民主主義的体制へとソ連を転換させようとし、そのために枷を外すべき所に手を付けたのである。

しかし民主主義はかえって民族主義を刺戟し、民族の分布が比較的単純なバルト三国やベラルーシ、ウクライナなどはまだしも、多くの民族がまだらに生活する広大なロシアには社会不安を惹起した。経済の自由化は、それまで過剰に管理された市場に慣れていた人々にとっては、国家による責任の放棄でもあって、ただちに巧くゆくはずもなく、物不足と行列が末期ソ連の象徴となった。

ゴルバチョフは、旧来の共産主義の教条を支持する保守派と、エリツィンのような自由主義志向の急進的改革派との板挟みとなったが、政治の自由化によって依拠する基盤を失った共産党は機能不全に陥っていった。

ゴルバチョフはバルト三国の独立は承認し、残るソ連邦構成共和国の間に、新連邦政府を構築する条約の締結を目指したが、すでに独立を決議したウクライナは受け容れず、1991年12月、最終的にソ連体制は消滅した。

ソ連崩壊から新生ロシアへ

政治の自由化が進展し、同時にゴルバチョフの改革が行き詰まりつつあった90年、プーチンは東ドイツの任地を離れ、故郷の街に還った。КГБに籍を置いたまま、母校の副学長補佐官に就任。その後、学生時代の縁故で、法学部教授だったアナトリー・サプチャク市議会議長と再会し、同氏の補佐官となった。

各地で自由選挙が行われた91年の6月、サプチャクがサンクトペテルブルク市長になると、プーチンはКГБを退職して市対外関係委員会議長に任じられ、94年からは第一副市長を兼務した。この時期は自由主義改革派のサプチャク市長のもとで、西側企業の誘致などに辣腕を振るったという。サプチャクはのちにその仕事ぶりについて“仕事中毒のように一日十四時間も十六時間も働いていた”と回想している(2000年2月22日上に同じ)。

サプチャクが再選に失敗したすぐあと、96年6月、プーチンは大統領府に入り、総務局次長となった。一年後には大統領府副長官蒹監督総局長、98年5月に第一副長官へと進み、7月に連邦保安局長官へ転じた。(続く)

本稿全体の参照記事

  • 1999年8月〔モスクワ9日〕《ロシア全閣僚を解任 大統領 首相代行にプチン氏》/〔共同〕《ウラジーミル・プチン氏》

  • 2000年1月1日〔モスクワ31日〕《選挙前倒し狙う プチン氏 当選確実と判断》/〔共同〕《ウラジーミル・プチン氏》

  • 2000年2月22日《プーチン氏の実像は― 徹底した合理主義者 不気味さを恐れる声も》

  • 2000年5月〔モスクワ7日〕《プーチン氏が大統領就任 ロシア 初の民主的権力継承》/〔共同〕《ウラジーミル・プーチン氏》

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