もしツル Scene 8


 鶴女房の昔話で「男の罪」が語られていないことを不思議に思った僕は、翌週、仕事の合間をみて国会図書館に通い、さらにいくつかの参考文献を読んでみた。ところが驚いたことに、昔話の研究ではこの問題「男の罪」を正面から取り上げているものが見当たらなかった。僕の疑問は深まるばかりだった。

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 水曜日の夜、マンションに帰って、やよいと差し向えでビールを飲みながら話しかけてみた。

『やよいは、約束を破った男のことをどう思う? 僕は君に何か悪いことをしたのだろうか……』

 彼女は、黙って僕を見つめているだけだった。

 この疑問を僕一人で考えるには限界があった。誰か昔話研究の専門家に聞いてみるより他に方法がないと思った。幸いにも僕には、大学の国文学科で神話を研究していた従妹がいる。彼女に聞いてみようと思い電話を手に取った。スマホの向こうから『慎之介兄ちゃんから電話があるなんて、珍しいわね』という声が聞こえてきた。

『久しぶり、元気かな。ところで、鮎子はたしか大学で神話の研究をしていたよね』
『たしかに、それがどうかしたの?』
『じつは今、昔話の「鶴女房」について少し調べているんだ。ところが、どの本を見ても分からないことがあって、昔話に詳しい人に話を聞きたいと思っていた。それで鮎子のことを思い出したんだ。、誰か適当な人を知っていたら教えてくれないか?』
『どんなことを知りたいの?』と鮎子は聞いてきたので、かいつまんで疑問を説明すると、すかさず、『それなら、わたしの卒論指導教員だった八橋先生がいいと思うわ』という答えが返って来た。

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『ありがたい、ぜひ紹介してほしい』
『それはいいけど、ちょっと変わった人だから、会うとびっくりすると思う。それでもいいかしら?』
『構わない、少しぐらい変わった人でも問題はないよ。でも、どんな人なんだい?』
『う~ん、口では上手く説明できないわね。まあ会えば分かるわ。ちょうど今週の土曜日に先生の研究室で資料整理の手伝いをすることになっているから、都合がいいなら一緒に行きましょう。それでどうかしら』
『土曜日は予定がないから大丈夫、お願いするよ。どこに行けばいいのかな』

『三重県の伊勢市よ』という返事が返って来た。僕はびっくりして『伊勢市! あの伊勢神宮がある伊勢市のこと?』と言うと、『そうよ、そこにわたしが通っていた大学があるの。神主の資格が取れる大学よ』と、あっさり言った。これは思っていたより大掛かりなことになってきたぞと思いながらも、伊勢にはまだ行ったことがなかったので、好奇心も湧いてきた。
『了解、ではどこまで行けばいいのかな』
『近鉄電車の宇治山田駅で待ち合わせをしましょう。東京からだと、自動車で来るより新幹線と近鉄特急を使う方が早いから。12時頃に駅で落ち合うという予定でどうかしら?』
『わかった、12時頃に着くように出かけることにする。よろしく頼むよ』と言って電話を切った。


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 専門家の話を直接聞くことで僕の疑問が解消するという保証はなかったけれど、僕はひとまず満足した。ただ、鮎子が「変わった人だ」と言っていたことが気がかりだった。そう思ってビールを飲んだ時、目の前にいるやよいが音を立てて羽根を激しく三回、羽ばたかせた。彼女が鶴になってから、そんなことは一度もなかった。それは何かに驚いて羽根をバタつかせているようにも見えた。やよいは、僕が鮎子に話したことを聞いていたはずだ。

〈僕は何かまずいことを言ったのだろうか?〉

そういう思いが頭をよぎった。



やよい小

 私は驚いた。慎之介がスマホで話していた「鶴女房」のストーリーは、長老のタンチョウから聞いていた内容と違っていたからだ。

〈恩返しのために機織りをした?〉

 それは、まったく意外だった。私は羽を振った。

〈慎之介、違う、そうじゃないのよ!〉

 わたしの気持ちが彼に伝わったかどうかわからない。でもわたしには、慎之介の説明を聞いてはっきりわかったことがある――「人間世界では、鶴女房の話を間違って伝えてきたのだ。みんな大切なことに気づいていない」。
それは驚きであり、発見でもあった。
 慎之介は何をしに伊勢に行くのだろうか? 人間の言葉を失い、慎之介に「鶴女房」の真実を話せないことがもどかしかった。



参考文献
『日本昔話事典』(弘文堂, 縮刷版, 1994年)
関啓吾編『日本昔話集成 第二部の1』(角川書店, 1953年)
関啓吾編『日本昔話 I-III』(岩波文庫, 1956-1957年)
市古貞次校訂『未刊中世小説』(古典文庫 第18冊, 1948年)
古川洋子「鶴女房説話小考」『伝承文学研究』第11号, 1971年7月
狩野博幸「土佐光信筆 鶴草子について」『学叢』5, 京都国立博物館, 1983年3月


つづく


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