もしツル Scene 9
土曜日になった。スマホで検索すると、12:00に三重県の伊勢に着くためには8:30頃、品川から新幹線に乗れば十分間に合うことがわかった。僕は、トーストとコーヒーで簡単に朝食を済ませ、コーヒーカップを洗っている時に、シンクの中からゴキブリが這い出してきた。僕は、ゴキブリが大の苦手だ。
「こいつらが出始める季節になってきたんだ」と思いながら、ゴキブリ退治の箱を取り出して、キッチンの壁際にセットした。やよいは、その様子をじっと見ていた。出かける前に余計な作業をすると気分が落ち込む。僕は大きなため息をついて、服を着替えた。
原宿から山手線に乗り、品川には8:30過ぎに着いた。前もって指定券を買っていたのぞみ号に乗り、車内で鶴女房の話を読み返した。それを読みながら、今日初めて会う八橋さんに聞きたいことを確認した。でもそれは、結局のところ一つしかない。
〈男の罪はどうなったのか?〉
それがわかれば、この昔話が意味するところがかなりはっきり見えてくるように思った。そして、それは僕とやよいのこれからの関係を考えるうえでも大切なことのように思えた。並大抵の努力だけでは、人間が鶴と一緒に暮らすことは不可能だ。この奇妙な関係を受け入れ、何とか折り合いをつけて生活していくためのヒントが、必ずこの昔話のなかに隠されているはずだ。
そんなことをあれこれ考えているうちに、電車は大井川を越え、天竜川を越え、浜名湖を越えて名古屋に着いた。JRと近鉄の名古屋駅は連絡通路でつながっていたので、迷うこともなく10:50発の近鉄特急に乗ることができた。宇治山田駅に着いたのは12:13。
約束の時間から少し遅れてしまったけど、鮎子は駅のコンコースで待っていてくれた。薄い青色のサマージャケットを上品に着こなした彼女は、『ようこそ伊勢へ』と言って僕を出迎えてくれた。
『久しぶり、今日はよろしく。鮎子に感謝するよ』と言うと、それには答えず、『まず、どこかでお昼ご飯を食べましょう。何かリクエストはある?』と聞いてきた。僕が『それなら、伊勢ならではのB級グルメの料理を食べたい』と言うと、「了解」と言って、歩き始めた。
駅に近い小さな食堂に入ると、彼女は「伊勢うどん」を二人前注文した。運ばれてきたのは、甘辛いたまり醤油の出汁に絡めて食べる、少し太めの腰がないうどんだった。出汁の色は濃いけれど、思ったほど辛くなくて食べやすかった。
それを食べながら鮎子が『八橋先生は、話し出すと止まらない、自分のことばかり言う、独断と偏見に満ちている、というタイプで、慣れてないと疲れる人なの。初対面でもお構いなしだから、その点はあらかじめ覚悟しておいてね』と、半ば面白そうに言った。忠告してくれているのか、僕が困るのを見て楽しむつもりなのか、どちらかよくわからなかった。あるいは、その両方かもしれなかった。
『わかった、僕は我慢強い方だから大丈夫だよ』
『うまく話を引き出すためにはコツがあるから、それは私に任せておいて』、鮎子は目で笑いながら、これから起きることを想像しているようにも見えた。僕は『よろしく頼むよ』と言うしかなかった。
宇治山田の駅からバスに乗り、その大学に向かった。伊勢神宮の外宮と内宮のほぼ中間に位置する倉田山という丘陵にあるそのキャンパスは、小さく、樹々に覆われていた。学生の姿は疎らで、静まり返っているキャンパスは、まるで森の中に取り残されて時間の流れが止まってしまった昔話の世界のようにみえた。
八橋先生の研究室は、そのキャンパスの一番奥に立っている古い建物の四階にあった。廊下の窓からは、新緑に覆われたなだらかな山並みが見えた。
鮎子がドアをノックすると、『居ませんよ!』という甲高い声が聞こえてきた。僕はびっくりしたけど、鮎子は『大丈夫。あれは「入ってきてもいい」という返事だから。今日はご機嫌みたい。慎之介兄ちゃんは運がいいわよ』と、ニッコリ笑って言った。
僕は「これは、なかなか大変な人だぞ」と思った。伊勢まで来たことを早くも後悔したけれど、今さらどうにもならなかった。鮎子が、『失礼します』と言ってドアを開け、僕はその後ろについて部屋の中に入った。
つづく