画像1

デュカス 舞踊詩《ラ・ペリ》より 『ファンファーレ』

のまにまに DTM Orchestra
00:00 | 00:00
舞踊詩《ラ・ペリ》は、
ポール・デュカスが
1912年に完成させたバレエ音楽。
妖精のペリについてのペルシャ神話
(アレクサンドロス・ロマンス)を基に、
人間の不老不死への執着が
主題とされている。

ポール・デュカスは、
レオン・バクストの衣裳と
舞台装置によるバレエ《ラ・ペリ》のために
ダンス音楽を作曲するように
ロシア・バレエ団から依嘱され、
1911年に「1幕の舞踊詩」の
作曲に着手する。
蓮の花の精ペリはナターリヤ・トゥルハノヴァ、
イスカンデル王はヴァーツラフ・ニジンスキーが
演じることが決まっていたが、
セルゲイ・ディアギレフが介入し、
トゥルハノヴァはニジンスキーの
相手役が務まるほどの
力量ではないと言い出して、
公演をキャンセルしてしまう。
それでもデュカスはトゥルハノヴァのために
このバレエ音楽を完成させた。
デュカスが生前に出版した最後の作品であり、
また最後の管弦楽曲である。
この作品については次のような逸話が残されている。
晩年のデュカスは、自己批判が昂じるあまり、
ついに自分の不満な作品を片っ端から
暖炉にくべて焼き捨ててしまうことにした。
いよいよ《ラ・ペリ》の自筆譜にも
手が伸びようとした瞬間、
知人が訪ねて来てその現場を目撃し、
何とか考え直してくれるようにと懇願した。
その時は渋々承諾した巨匠であったが、
その後この作品に対する評価を
好転させることとなり、
出版譜として公にすることにする。
さらにそれから数年後には、
《Fanfare pour précéder "La Péri"》
(「ラ・ペリ」の前奏用ファンファーレ )を追加作曲し、
バレエ音楽としてだけでなく、
演奏会用の楽曲としても、
いちだんと体裁を整えた。

舞踊詩《ラ・ペリ》は、名高い交響的バラード
《魔法使いの弟子》ほどに有名であるとは
言えないものの、デュカスの最も脂の乗り切った、
円熟した傑作であるということは広く認められている。
作曲様式は、ドイツ後期ロマン派音楽の
調性感と管弦楽法に、
フランス印象主義音楽の和声感が
融合されていると言ってよい。
また、ワーグナー流のライトモチーフや
リスト流の主題変容の技法も見受けられる。

一方、バレエに先立つファンファーレは
金管楽器だけで演奏することから、
金管アンサンブルや吹奏楽団の演奏会をはじめ、
交響楽団の演奏会のプログラムに
取り上げられることもあり、また、
ホテルやデパートなどの開館式、
高速道路の開通式など、
各種式典において単独で演奏されることもある。

先述のようないきさつにより、
ロシア・バレエ団による当初の
公演計画は流れてしまったものの、
結局トゥルハノヴァは
イワン・クルスチンに振付けを依頼して、
1912年4月22日にパリ・オペラ座での
初演に漕ぎ着けることが出来た。
トゥルハノヴァがタイトルロールを、
またベケフィという男性ダンサーが
イスカンデル王役を演じた。
舞台装置はルネ・ピオのデザインに拠った。

1931年にはロンドン・マーキュリー劇場において、
バレエ・ランバートによって上演されている。
振付はフレデリック・アシュトン、
衣裳はウィリアム・チャペルが担当した。
アシュトン自身がイスカンデル王を演じ、
バレリーナのA・マルコワがペリ役を踊った。
バレエ・ランバートは1938年には
フランク・スタッフの振付で再上演に挑み、
一方のアシュトンは1956年に
ロイヤル・バレエ団のために新たな振付を行なった。
アシュトンの新版は、M・フォンテーンと
マイケル・ソムズの舞踊と、
アイヴォン・ヒッチンズの舞台美術、
アンドレ・ラヴァスールの衣裳によって
上演されており、英国内では、
ハマースミス・リリック劇場や
マンチェスター・パレス劇場においても上演された。
Wikipediaより
あらすじは以下Wikipediaよりご覧下さい!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA

2021年04月 作成

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?