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やりたくないからやりたいこと①

こんにちはチャキです。

久しぶりにちょっとだけまともな睡眠がとれました。神経質な性格なので、翌日に予定が入っていたりすると眠りが浅くなる傾向があります。なので試験の前々日くらいから眠りの質は悪化し、試験終わったその日も疲れすぎてあまり眠れず、そしてその翌日は仕事があったので寝過ごせないぞという気持ちになり、ようやく何も気兼ねなく予定なく眠れたのが昨晩だったわけです。

色々とやりたいことに伴ったやらねばならないことがあるのですが、今回はその前にやりたいことの番外編みたいなものの話を書いておこうと思います。もう二度としたくない思いともいいます。

これを人は後悔というのかもしれない、と思います。でも、それはちょっとしっくりこないのだということをまず書き添えておきたいと思います。何故なら、わたしはきっとそのときそれが最善だと信じていたと思うのです。もしくは、それ以外の方法を知らなかった、それか、そうすることしかそのときの自分には出来なかったのだと思います。だから、後悔というのはあまりしっくりはきません。絶対に1億円当たる宝くじを買わない人はいないでしょう。買わないとしたら、1億円を手に入れる以上の理由があってのことでしょう。わたしの人生は常にそういう風に出来ていると考えています。あのときああしていれば良かったと思わなくはないのですが、それよりも今現在強く思うのは、これ以上こういう思いを生む出来事を増やしたくないなのです。

ではもう二度としたくない思いを生む出来事とはどんな行いなのか。

①恩人に対し、感謝を伝えなかったこと

②大切に思う人を、大切に出来なかったこと

この2つです。両方とも具体的なエピソードがあるので自分のために少し書き残しておくことにします。


恩人に対し、感謝を伝えなかったこと

わたしは幼い頃極度の人見知りだったそうで、父の抱っこさえ拒否するような子どもだったそうです。そんなわたしが唯一、母以外に懐いていたのが、お向かいに住むクリスチャンのおばあちゃんでした。今から思えば、きっと良いお育ちのご婦人だったのだと思います。恐らくわたしが0歳のときには90歳を超えていたと思いますが、身内に迷惑をかけたくないからとお一人でファミリータイプのマンションを購入して暮らしておられました。

いつも家の中はきちんと掃除が行き届いていて、ふわふわのレースや燭台、家族の写真の入った写真立てなどが飾られ、ふかふかのソファがあったように記憶しています。そしていつも優しくて甘いいい香りがするおうちで、ポプリを飾っておられたと思います。お菓子作りがご趣味で、甘いお砂糖の匂いがしてくると、おすそ分けとしてつるつるの銀やポップで可愛いカラフルなアラザンが乗ったマフィンやケーキを、可愛いラッピングに包んで持ってきて下さいました。誕生日やハロウィンやクリスマスには、レースのカッティングがされたりリボンがあしらわれたカードとお菓子を下さって、「〇〇ちゃん、1才のお誕生日お目出とう」とボールペンで手書きされたカードは今でもずっと大切に残しているものです。今みたいに100均やAmazonでアラザンや包装用紙が買えたような時代ではありません。今となってはどうされていたのか分かりませんが、とにかくそのクリスチャンのおばあちゃんはひ孫くらいの年代のわたしのことをものすごく可愛がってくれました。

当時専業主婦だった母は、よくわたしをおばあちゃんに預けて、家事をしていたそうです。いつもニコニコとしていたおばあちゃんは、わたしに色々なものを見せてくれたように記憶しています。オルゴールや写真、編み物。わたしもいたずらをしたり暴れたりするタイプの子どもではありませんでしたが、「よい子で楽しかったですよ。また遊びに来てね」とわたしを褒めて母の元へ帰してくれました。

そんなおばあちゃんは、わたしが幼稚園の頃にキリスト教系のグループ老人ホームに入ることになりました。一人で生活することが出来ていたのにも関わらず引っ越しが決まったので、今思えば一人で生活できるからこそ誰にも迷惑をかけない間にホームへ入って生活に慣れておこうと考えられたのかもしれません。おばあちゃんが住んでいたマンションにはお孫さん夫婦が子連れで越してくることになっていました。でも、幼稚園児のわたしには了見できませんでした。おばあちゃんが居なくなると知ったわたしは家でかなり泣いて、「おばあちゃんはわたしが嫌いになったからいなくなるの?」と両親を問い詰めて駄々をこね、答えに窮するような質問をぶつけました。そんなわたしにどう思ったのかは分かりませんが、父は「そんなんじゃない。これ以上我儘を言うな」と酷く叱りつけ、それ以来わたしはおばあちゃんが居なくなる悲しさや寂しさを言えなくなってしまいました。その後もおばあちゃんは気にかけてくれたと思うのですが、あまり覚えていません。見送りしたこともあまり覚えていなくて、ずっと寂しい思いがあったように思います。それでもおばあちゃんは、小学校入学のお祝いやクリスマスにはメッセージカードを送ってくれました。わたしはそのカードに返事を書いた記憶がほとんどありません。何度かは書いたと思いますが、ずっとどこかでおばあちゃんが居なくなったことに折り合いがつかなかったと記憶しています。

そんなあるとき、おそらく小学校3年生くらいだったと思いますが、学校から帰ってきたらお向かいの玄関先に人がいて、なんとそこにはおばあちゃんがいたのです。「○○ちゃん!?大きくなったね。久しぶりやねえ」と声を掛けてくれたと思うのですが、わたしは素直に再会を喜べませんでした。どこかで、わたしを置いていったおばあちゃんに怒りを感じていたことが今は分かります。けれどその時はただただどう接したらいいのか分からなくて、少し挨拶をした程度で家の中に入ってしまいました。母はおばあちゃんが施設から出て家族に会いに来ていたことは知っていたようで、挨拶をして、施設へ戻るおばあちゃんを少し離れたところから母と見送りました。これが、わたしがおばあちゃんを見た最後の姿になりました。

おばあちゃんが亡くなったと知ったのは、もう随分経ってからでした。お向かいにいた当時でも90歳を超えていたので、もう亡くなっていてもおかしくないのではと気にかけていた母がお向かいのお孫さん夫婦に尋ねたところ、そのときはまだご存命でした。しかしそれから更に時間が経ち、おばあちゃんが入っていた施設に母が問い合わせをしたところ「退所なさいました」と言われたそうです。後から聞いた話ですが、100歳を超えてお亡くなりになったようでした。しかしわたしは親族ではありませんし、お孫さん夫婦も引っ越してしまわれたので、おばあちゃんのお墓がどこにあるかも分からないのです。

わたしはずっと、おばあちゃんに最後会ったときの態度を後悔しています。再び会えたことを素直に喜べば良かった。ずっと寂しかったと伝えたら良かった。おばあちゃんが大好きだと言えば良かった。今も、あなたのことを思い出しては温かい愛を思い出すし、今も会いたくて寂しいと思います。けれど、おばあちゃんが生粋のクリスチャンであったことがわたしを救ってくれます。お墓も分からないし、教会に行くこともほとんどないけれど、きっとおばあちゃんは「思い出してくれてありがとう」と言うでしょう。「ずっとあなたの傍にいたのよ」「それが愛なのよ」と笑ってくれるでしょう。でも、それが分かるからこそ、直接それを伝えて、本当におばあちゃんに笑ってもらえたら良かった。

わたしは偶然、本当に小さい頃にこんな風に愛してくれる人と出会えて、今もまた縁があってクリスチャンの恩師がいます。ゴスペルを聴いたり歌ったりして、愛に生きることを感じることが出来ます。それは本当にただのラッキーで、偶然わたしに与えられた素晴らしいものだと思っているのですが、おばあちゃんのことがあるからこそ、わたしはもう感謝を出し惜しみしたり、愛するものに自分の気持ちを素直に伝えないことはしたくないのです。そのためには、自分の中の怒りや寂しさや拗ねたような気持ちとどう付き合っていくか、妨げてしまうものをいかに少なくしていくか、考えるべきだと思っています。

きっとこれは、普段対等な関係でいる友人やパートナーにも言えることなのでしょう。さらには、友人で居られなくなった人、別れてしまったパートナーでさえも。彼らと一度縁が繋がったことがある以上は、何かをお互い与えあった瞬間があったと思うのです。それは離れてしまってから気付いたかもしれません。別れを通して学ぶこともあると思います。それでもいいから、もしその人達と少しでも心を通わせることが出来るなら、どんな形であってもわたしは感謝と愛情を伝えることで返していきたいと思っています。

https://youtu.be/CnPfPGuk9ZQ


本当は一つの記事内でまとめようと思っていましたが思いのほか長くなったので、②はまた次回。

マイペースに徒然しているだけなのですが、わたしの記事が刺激になったり、良かったよ!と思って行動して下さると嬉しいです。ちょっとした親切や、どこかに寄付をするなど、あなたの出来ることが誰かの良きご縁になりますように。それがあなたの幸せに繋がりますように。