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人間的自由や制御されないものと関わるという人間の特種性とリルケの詩

マルクス・ガブリエルの「世界はなぜ存在しないのか 講演」の最後は、リルケの詩で締めくくられている。

文化や歴史、存在しないものにも関わるような諸対象は、常に「自然主義」の試みに反対するものであると述べている。

「自然主義」のイデオロギーが危険であると。

自然科学的理論だけが世界を完全に把握できると考えることが危険であると言う。

これは、世界が対象ではなく、退隠しつつ、私たちを拒むものを捉えようという多元的な試みにおいてのみ現れるということによる。

詩の中にも世界は現れているという。

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われわれはかつて一度も、1日も、
ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る

純粋な空間に向きあったことがない。われわれが向きあっているのは、いつも世界だ。
決して「否定のないどこでもないところ」ーー例えば空気のように呼吸され
無限と知られ、それゆえ欲望の対象とはならぬ純粋なもの、
見張りされぬものであったことはない。幼いころ
ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に
揺すぶり醒まされる。また、ある人は死ぬときそれになりきっている。
なぜなら死に臨んでひとの見るのはもはや死でなく、
その眼はずっと遥かを見つめているのだから。おそらくはつぶらな動物の瞳で。
愛の人々も、もしその視線をさえぎる愛の相手がいなければ
ふとしたあやまちからのようにそれがその人々に開かれるのだ、
愛の相手の背後に・・・。しかし誰もその相手を
乗り越えて進みはしない。そして閉ざされた世界がふたたびかれらの前に立ちふさがる。
わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、
ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、
しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。または、物言わぬ動物が
運命とはこういうことだ、向きあっていること。
それ以外の何物でもない、いつもただ向きあっていること。

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