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世界はなぜ存在しないのか 講演編


この本には、「世界はなぜ存在しないのか」の講演の内容が付録として、掲載されている。この記録は、次のような文章ではじまる。

非常に多くの物が存在する。いや、それどころか、あまりに多くの物が存在するのでそのすべてを数え上げてみようとは誰も夢にも思わない。

2013年にマルクス・ガブリエルはベストセラーとなる「世界はなぜ存在しないのか」という本を出版する。この講演録はその予告編のようなものである。以下抜粋する形で内容を整理したい。

あらゆる存在する物は世界のうちで現れます。だから、世界というのはかなり包括的なわけで、厳密にいえば、世界とはすべてを包括するものなのです。世界は、存在するものすべてが現れる領域であり、それゆえ、存在するものはどれも、世界において他のあらゆる存在するものと関連しあっても いるのです。

存在するものの中には、その歴史なくしては理解されないものがあるのです。いつだって、歴史とは存在しない物の現前です。歴史とは、私たちが過去を振り返って見る際に当てる光のもとでも、決して存在しなかった物の現前なのです。なぜなら、そうした過去の物が存在した時には、それらの物はいま存在する物を規定できるような物ではなかったからです。いま存在するものは、過去の物が存在していた時には、まだまったく存在していなかったのですから。

哲学者ルードウィヒ•ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で次のように述べる。
「世界は成立している事柄の総体である。世界は事実の総体であって、ものの総体ではない」
世界は、お互いに力を及ぼしあいながら変形・変化していく物を保管している巨大な容器ではありません。もしそんなものが世界であるとすれば、事実は存在しないことになってしまうでしょう。なぜならば、事実とは物ではなく、私たちが物や、物の連関について主張できる真理こそが事実だからです。例えば、世界は巨大な容器であるという考えも、万が一それが真であるとすれば、巨大な容器のうちに現れる物ではなく、事実ということになるでしょう。
ヴィトゲンシュタインを手掛かりとすることで、物だけでなく、事実も、いや、おそらくこういって良いでしょうが、事実こそが世界に属しているということがわかったのです。

ここまでの私たちの到達点をもう一度まとめておきましょう。
一、世界はすべてを包括する総体であるように見える。
二、すべてを包括する総体における展開の一部では、物が総体のうちで歴史を伴って現れる。
三、すべてを包括する総体は物を包括するだけではなく、事実も、いやむしろ、事実だけを、包括する。

興味深いのは、存在するもののすべては、その都度、ある対象領域においてのみ存在する、つまり、存在するもののすべては或る対象領域においてのみ現れるということ、そして、対象領域は集合に類似する点がいくつもあるということです。
物や事実だけでなく、対象領域も存在します。この対象領域が、或るものがなんとかして配置されるかをその都度規定しているのです。

私たちはすでに、世界が物、事実、そして諸々の対象領域から成り立っていることを知っています。いま問うべきなのは、世界そのものは物や事実あるいは対象領域なのかということ、そして、そのことから、それぞれ何が帰結するのか、ということです。世界が何かから成り立っていると言うことはそもそも可能なのでしょうか?
世界が物でないことは確かです。というのは、物は、いつもなんらかのあり方をしているからです。物はあれやこれやのあり方をしています。

すべての物は性質を持っています。この性質が物を規定し、物がなんらかのあり方をしているという風になるのです。しかしながら、この性質というものは、原理上常にいくつもの物に属する物であって、物を分類し、その性質が属する物の集合を生み出します。物があれやこれやであると私たちが述べるとき、性質について言い表されています。これは、性質が述語として言い表されるということです。
何か或るものが存在すると主張する際の存在は、空虚ではないという概念の性質、つまり或る物がその概念に属している、という性質なのです。概念は空集合とは同一ではない、ということを主張しているにすぎません。
諸概念はいくつもの対象領域を生み出し、そしてこれらの対象領域において物や事実が現れます。対象領域において、規則が通用し、特定の物や事実が現れ、作り出されるわけです。一つの対象領域で現れるものはすべて存在するものであり、それがその中で現れる対象領域に照らして、あれこれの性質を持つものとして存在するのです。
それでは、世界そのものはどのような概念に属することになるのでしょうか?他の物もそれに属しうる概念に、世界は属しているのでしょうか?この問いは、どの対象領域において世界は現れるのか、と表現することもできます。世界が何か或る概念に属するのであれば、世界は或る対象領域において現れるでしょう。けれども世界は、あれやこれやであって、他ではないようなものではありません。あれこれに規定された物はすべて自らを他の諸物から区別する諸々の性質からなる有限な集合を持つことになります。超限集合でさえ、他の集合から自らを区分する性質をもっています。世界のうちに現れないものは何物も存在しないのですから、世界は世界のうちに現れる物のすべての性質を持っていることになります。それゆえ、世界は他のものとの区別を可能にするようななんらかの性質さえも持つことがないのです。したがって、世界はなんらかの仕方であらゆるものであるがために、世界は同時に何物でもないということになり、つまり、他の物と並んだ規定された物ではないということになります。そう、世界は物ではないのです。
それだけではありません。物だけでなく、対象領域も存在しています。つまり、対象領域も世界において現れるのです。

諸々の対象領域の対象領域としての全体は存在者では決してなく、存在すると言うことのできるものではない。世界は世界のうちでは現れない。

私たちは世界をまったく同定することができないということなのです。世界は他のものと並ぶ規定されたものではなく、それゆえ、示すこともできません。端的に言えば、世界は対象ではないのです。だから、世界が存在すると言うことはできません。世界は存在しない、あるいは、世界は世界のうちでは現れないのです。

世界は存在するのではなく、性起するのです。世界は端的に性起なのです。そして、私たちは、この性起へと構成的に関与しています。なぜなら、私たちが諸々の対象領域を生み出していて、物は、その中ではじめて、あれこれに規定されたものとして現れることができるからです。

世界によって明け渡されたものだけが存在します。それに対して、世界そのものは私たちの干渉の届かないところに退いています。

世界を世界として考察できるような絶対的な立脚点は存在しません。制限された地平が常に存在するだけであって、その地平のうちで、物があるなんらかの仕方、しかも常に他のあり方が可能であるような仕方で、示されるのです。
それにもかかわらず、世界が存在しないというのは歓迎すべき事態です。あらゆる出来事の究極的な意味、つまり性起が絶え間なく退隠し続けるからこそ、諸対象一般が存在し、私たちは諸対象をあれこれと規定されたものと見なそうとすることに関わることができるのです。もし退隠をしつこく追いまわして、その謎を解こうとするならば、私たちの傲慢に対するいわば罰として、私たちは拠り所 を失い、一切のものの意味喪失という深淵の中へ落下してしまうでしょう。

地平、性起、真なるもの、世界(あるいはいったいそれを何と呼ぼうと)といったものを決して手に入れられないということに私たちが気付かないでいるならば、それ自体は場所をもたない場所を捉えて対象にしようという試みは、悲劇的な結末を迎えるでしょう。存在しないもの、つまり私がとりわけ世界として語ってきたものと、存在するものとの間にある隔たりのうちで、私たちの生は営まれているのです。

この講演で述べられていることは、非常に分かりやすい。これをベースに「世界はなぜ存在しないのか」の本を読み進めたいと思う。


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