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当たり前が変わるとき―障害は作られるし減らせるよって話―

識字率が低かった時代、
文字を読み書きできることは才能で特権だったはず。

どうも、こぶたです。
対人コミュニケーションは不得意で、活字の世界でしか生きれない私ですが、
ある時、世の中には文字が書けない読めないという障害が存在することを知りました。

本を読まない?!読めない?!
字を書かない?!書けない?!

そんな人が存在するなんて、知りもしなかったのですが
自分の知らないそうした世界に生きる人が、身近にいるようになった今、自分の当たり前と彼らの当たり前をすり合わせるにはどうしたらいいかの
合意点を探るのが私の当たり前となりました。

話を戻します。

識字が民主化された今、
読み書きに不自由があることは
【障害】になっていきました。

幸せの底上げだったはずの
「誰もが読み書きできる世界」

だけどこうして、識字の民主化により作られる障害もあるのだということを
「誰もが読み書きできればいいのに」
と願った昔の人たちは
知り得たのでしょうか?


最低限度の幸福


かつての誰かが涙を流したあと、後の世の幸せを願うたび、少しずつ世は変わってきました。

かつては“幸せ”と言われたものが当たり前になり、ボトムアップしました。

私たちが生きるのは、先人たちの涙を礎とし、当たり前の基準が随分底上がりした世界です。

男性も女性ももちろん大学を出ていて、知識に溢れ、賢く仕事が出来、
コミュニケーションに長け、ユーモアがあり、
オシャレで気遣いがあり、常識的で、謙虚で愛情深く、清潔に整えられ…。

今日一日を生きること・食べること・繁殖すること、着ること、暖を取ること、安心して眠れることに全力を尽くす時代から、
個人の努力や個人に掛かる負担が
民主化され、みんなで役割分担し支え合うことで
ほとんどの人が最低限度の衣食住を得られるような社会を作り上げました。

ですが最低限度の幸福が底上がりし、当たり前の基準がどんどん高地になって行くことで、選りすぐりの精鋭しか、
認められなくなってきているように感じませんか?

できることをできる方法でやれても、
それじゃダメだと言われている気になる人も
多いのでは無いでしょうか?

メガネと障害

かつては障害だったものが
ツールの普及により障害ではなくなったものがあります。

私は視力0.1のド近眼です。

裸眼では、視界はぼやけ10cmほど近づかなければほとんど何も見えなくて
人の顔もわかりません。

日本へ眼鏡が伝来したのは1551年、
フランシスコ・ザビエルたちの一団が持ち込んだそうです。

メガネがなかった時代に生きていれば、私は視力障害を持つ人でした。

約500年が経った今、メガネは民主化され
視力に問題かあろうがなかろうが
この国では視力矯正のためのツールとして
またオシャレのためのアイテムとして般化し

矯正できる視力は障害ではなくなりました。


障害が不利ではない世界線

みんなが手話で話した島があります。

ボストンの南にマーサズ・ヴィンヤード島という島があります。
この島の多くの人は遺伝的な聴覚障害がありました。
聞こえる聞こえないにかかわらず、誰もが当たり前に手話を言語としながら暮らしていました。

聴覚障害のある人も聞こえる人と同じように、当たり前の営みの中で結婚し、生計を立てていました。


昔、障害者スポーツに携わった経験があります。
選手は大抵、車椅子ユーザー。
立って歩く人はほとんどいません。

遠征に行く時には車を出し、運転するのは大抵、車椅子ユーザーです。
大人数の車椅子ユーザーの中では、たって歩けることはマイノリティでした。

立てるということは高さに強いため、重宝はされます。
けれど、歩ける人が一方的に車椅子ユーザーのお世話をするわけではなく、
それぞれができることを分担して行い、チーム運営をしていました。
そこには、車椅子ユーザーのマイノリティ性はありませんでした。

障害は作れるし減らせる

かつて、脊髄を損傷すれば寝たきりで天井を見つめながら
糞尿や褥瘡にまみれ、死を待つような時代がありました。

ですが今、医療が進み、街が整い、様々な環境が整備されたことにより
寝たきりでもあらゆるデバイスを駆使し、社会進出できる人も見られるようになりました。

障害は環境により
作ることも軽減させることもできます。
つまり、個人の努力には依存しない側面を持っています。

障害は個人が持つ特性にすぎません。
そこには強弱があり、様々な程度の違いがあります。
肉体的にも、精神的にも。

ですがその特性は時に社会との間に摩擦を生じさせます。
それこそが障壁となるのですが、そこにももちろん程度の差が存在するのです。

おわりに


特性の違いによる不利益を被るのは、
その度合いが、より強い群になります。

けれどその基準は曖昧で、社会の当たり前の基準設定により、いくらでも不利益(障害)は作りだせるし減らせるのです。


昔の偉い人はこう言いました。

人々よ、寛容であれ。
汝、隣びとを愛せ。


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