手紙
「雪は天からの手紙である」と言ったのは中谷宇吉郎博士だった。それになぞらえると「ふせんは過去の自分からの手紙である」か。
本を読んでいて感銘を受けたり、へぇと思った箇所に行き当たると、ページの上端を軽く折っておき、通読後にもう一度読むようにしている。読み直してみて何ということはないなと感じれば折れ目を直し、そのときもなお響くようなら、ふせんをつけるのだ(書き込みや線引き、マーキングはしない派)。
ときおり、過去に読了した文庫本をランダムに抜き出し、ふせんのページを開いてみることがある。「ああ、これか。忘れていたけど、いいこと書いてあるな」と思うこともあれば、なぜここに印を残したのか、当時の意図や感興を忘れてしまっていることもある。
大して変わらないようでいて、じつは少しずつ変わっている自分。過去の自分が残したかった気づきを、ふせんが伝えようとしてくれている。だから「ふせんは過去の自分からの手紙」なのである。
今年1月、向田邦子さんの没後40年イベント「いま、風が吹いている」に行ってきた。51年の生涯と作品歴、生原稿や台本、旅先で撮影した写真や愛用・愛蔵の品の展示、妹と営んでいた小料理屋「ままや」のレシピを再現したメニューの提供、作品から抜粋された言葉の切れ端が天から舞い降りる発射装置……などなど。
あまりに充実したイベントであったため、会場を出る頃には向田作品が読みたくて、うずうずしていた。その足で古書店へ駆け込んで数冊の文庫本を入手。エッセイ集『夜中の薔薇』から読みはじめた。
わが蔵書となった講談社文庫『夜中の薔薇』には、各短編の最初のページのノンブルに鉛筆の「〇」がついていたり、いなかったりする。この本の旧蔵者のお気に入りが「〇」ということなのだろう。
読み進めていくと、旧蔵者のつけた「〇」が、わたしの好みに近いようだとわかってきた。単に万人受けするものだったり、疑いようのない名編だったりするだけかもしれないが、なんだかうれしくなるものである。
名前や性別はおろか、生死すらわからない、見知らぬ人の面影を感じながらページをめくる。「〇」がついていると、期待が高まる。これもまた、過去の誰かからの「手紙」といえるのかもしれない。
鎌倉の創作中華の店で続きを読んでいると、「手袋をさがす」に差し掛かった。思えば、久々の「〇」。
ほぼ同時に店自慢の麻婆豆腐が届いたので、匙ではふはふと口に運びつつ読書を継続する形となった。どちらかに絞れずの「ながら作業」。細心の注意を払っての決死の読書である。
麻婆豆腐は輪郭のしっかりとした味つけで、とろりとした絹ごし豆腐がよきアクセント。旨みのあとに、山椒がじわじわと効いてきた。
「手袋をさがす」のほうは徐々に、まるでわたし自身のことが語られているかのような記述となっていった。ぐさり、ピリリとわたしの感覚に突き刺さって、縦に横に揺さぶってくる。山椒や唐辛子の味覚的な刺激からか、それとも文章に触発されてか、気がつけば胸の奥が、目頭が熱くなっていた。
電車のなかで、折れ目のべらべらついた「手袋をさがす」のページをもう一度開くと、旧蔵者が「手袋をさがす」の最初のページに記入した「〇」の線が、へろへろと描かれていることに気づいた。旧蔵者もまた、いまのわたしと同じような心持ちで「〇」をつけたのかもしれない。