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岩屋城址

もう1ヵ月前(11月中旬)の事ですが、用事で博多に行ったので帰りに太宰府まで足を運びました。

前からずっと行ってみたかった「岩屋城址」。太宰府天満宮近くより大野城址へ上る車道の途中にあるのでなかなか機会がなかった。今回城址直下の車道に1台分止められる所があり、運良く空いていたので止めて登ってみました。太宰府、筑紫野の街並み、大宰府政庁跡や水城跡もよく見えて見晴らしの良い場所です。

岩屋城は大友氏家臣・高橋鑑種が築城したと伝えられ、近くの宝満城、福岡市東区香椎の北西にある立花城(立花氏)と、筑前支配の拠点となっていたお城です。鑑種が反旗を翻し城を追われた後、吉弘鎮理が高橋氏を継ぎ「高橋鎮種」と名乗り、宝満・岩屋の城主となりました。後の法名で有名な「高橋紹運」です。同じく筑前の守りを担ってきた立花道雪が亡くなった後は、実子統虎(立花宗茂)が立花家を継ぎ、立花城を守ります。

九州で大いに権勢を誇った宗麟時代の大友氏は、島津氏との争い「耳川の戦い」に敗れたのちは各地で劣勢、島津軍の北上を抑えられなくなります。肥前の虎・龍造寺隆信も島津軍に討ち取られ、筑前にも攻め上がってきます。大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求めましたが、秀吉の軍が九州に上陸するまで時間がかかります。紹運は覚悟を決め島津軍と対峙しました

2万と云われる島津の大軍相手に岩屋城に籠る紹運たちは僅か763人、降伏勧告を受けるが徹底抗戦を行います。紹運の采配により島津軍は何度も撃退され、沢山の死者が出るため講和条件も出されます、しかし紹運はこれにも応じずに戦い続けました。

籠城から半月がたつ頃、手の無くなった島津軍は総攻撃にかかり、多数の死者を出しながら攻め上がります。もはや本丸に僅かに残る紹運たちは最期を悟り自害して果て、言い伝えでは紹運以下全員討ち死にとなっている壮絶な戦いは幕を下ろします。

島津軍は紹運の子、立花宗茂の籠る立花城に向かい包囲しますが、ここまでの多数の犠牲と時間を要したことにより、秀吉の援軍到来を受け撤退。島津氏の九州制覇の夢も潰えます。

今は静かなこの地に立って何百年も昔を振り返る。平和な時代の有難さを噛みしめながら手を合わせました。道を隔てた斜面下の平地(二の丸跡か)には高橋紹運の墓地があります。こちらでも手を合わせました

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嗚呼壮烈岩屋城址の碑、奥に少し高台あり。ここが紹運最期の地だろうか。

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本丸からの眺め、左中央に九州国立博物館が見えてます。

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大宰府政庁跡。

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右側の尾根筋の末端から中央に向かって伸びている水城跡。

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高橋紹運公墓所。

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