写真_4_

あの頃の自分に会いにいく

(小沢健二の公式tumblr - ozkn.netで、レビューを募集していた時がありました。その時に投稿した、がしかし、掲載されなかったw原稿を、加筆修正しました。載らなかったので、長いこと心とPCの奥底にしまってありました)ひふみよ 2010年5月24日(月)/ 東京の街が奏でる 第五夜 のレビュー

中学の頃、同じ学年のヤンキー、ヒトシ君が亡くなった。不慮の事故だった。刹那的に問題行動をし、事故などで亡くなってしまうヤンキー少年は他にも居て、もっと自分のことを大切にできたらいいのにね…と、大人になった今は切なく思うが、当時の私は正直なところ、別段悲しくはなかったと思う。自分が生のまっただ中にある時というのは、死だとか老いだとかには鈍感なものだ。では、なぜ彼が亡くなったことを覚えているのかというと、彼と親しかったカナちゃんが、お葬式に出たあと学校で言った一言が印象に残ったからだ。

「ヒトシが死んだのに、なんでみんな平然としているのか、学校が昨日となにも変わっていないのか、わからない」

彼女はそんなようなことを言って、泣いていた、と思う。私は悲しくはなかったんだけれど、彼女が、普段は見えないようなものを見てしまった感じ、違和感には強く共感した。だからよく覚えている。

絶望的に不幸だとか辛いとか、そんなことは一切ない日々だったけれど、学校や塾での生活にはときどき違和感があった。そして高校生の時、「ああ、こういう違和感を扱っているのが文学なんだ」と気がついた。私が小沢くん(当時は「オザワ」と呼び捨てにしていました)に出会ったのもその頃で、要するに私にとっては小沢健二が文学で、三島由紀夫やジャック・ケルアックはその元ネタだった。(という風に本気で思っていたので、文学部を卒業しておきながら文豪の名だたる名作を大して読まないまま今に至る)

「東京の街が奏でる」冒頭のモノローグでは、「音楽は、必ずしも必要のないものだ」というような内容が語られた。確かにそう。生きていく上での優先順位は低い。けれど、「絶望的に不幸だとか辛いわけではないが、なにか違和感が」と思っているようなティーンにとって、音楽は、わりかし欠かせないものなんじゃないだろうか。そうだなー、「好きな人」とか「ケンタッキーのビスケット」の次ぐらいには。ただし、世の中そんなティーンばかりか?というとそうでもない。十余年前に小沢くんはオリコンベストテンにもランクインしていたし、HEY!×3のエンディングテーマだって歌うくらいメジャーだったけれど、それでも私が住んでいた田舎町で、「小沢健二のファン(「あ〜、オザケン?」というにわかファンではなく、フリッパーズから聴いているようなガチなファン)は本当に少なかった。高校の学年中を探しまわって、やっと一人。

今でこそTwitterなどで、まるで古くからの親友のように熱く語り合っている小沢健二ファンだけれど、実は十余年前のあの頃、一人ひとりは孤独だったはずだ。良くも悪くも。

擦り傷のような違和感に応えてくれるのが音楽しかなくて、昼休みにはヘッドフォンで「犬」なんか聴きながら、ぼーっと空を見て過ごしていた、皆そんな人たちだったんじゃないか……という気がする。


高校を卒業し、上京してずいぶん経った。結婚し子供も産まれ、いよいよ私の終の住処は東京に……となりつつあった。そんな時、小沢くんが十三年ぶりにコンサートをやるというニュース。もちろん活動再開は嬉しかったけど、私は正直、コンサートに行くのが怖かった。人生のベースを作るような時期に、小沢健二ばかり聴いて過ごしたのだ。コンサートに行けば、当然「あの頃の自分」に出会わざるを得ない。それはつまり、東京を舞台とした新しい人生に、大きな期待を抱いていた自分との再会であるし、そうなれば嫌でも、上京してから現在までの私の「LIFE」を(半ば強制的に)振り返る、ことになるだろう……

「ひふみよ」コンサートには、高校時代の、たったひとりのオザワファンの親友と一緒に行けることになった。彼女はずっと地元に住んでいたが、たまたま偶然にも、ひふみよ直前に東京へ引っ越してきていたのだ。私は彼女に「正直、コンサートに行くのちょっと怖い」と告白してみた。すると彼女は「あー…それ私もだよ」と言った。



ちなみにオペラシティで行われた「東京の街が奏でる」は、東京のみの公演だ。「ひふみよ」でなく、こっちが、小沢くんの活動再開後初めてのコンサートという人も多かっただろう。この街は地方出身者の寄せ集めでできている。それぞれの覚悟やら事情やら想いがあって、今も東京に居る。小沢くんにとって東京は「故郷」。けれど、ここが「旅先」という人も多いわけだ。

そんなわけで小沢くんには申し訳ないけれど、小沢くん本人だけじゃなく、あの頃の自分自身に会いに来ている人は多かったと思う。ナタリーの編集長さんなんかも、そうだったんじゃないかな?とか想像する。

ひふみよでも、オペラシティでも、小沢くんは「LIFE」の頃の曲をたくさん演奏してくれた。会場に来ている人たちはみな歌詞を口ずさんでいたが、その「歌いあげ」の正確さに驚いた。いや、私もファン歴は長いし自信はあったけど、オペラシティでは「女の子〜」と呼びかけられて何小節?ずいぶん長い間、客席だけで歌いあげていた。「東京の街が奏でる」を一緒に観た会社の後輩が、「こんなにお客さんが歌詞を正確に覚えているコンサートは珍しいと思います…」と、驚いていた。みんな、どれだけ体に沁み込むくらい聴きこんできたのだろう。特に、男の子の歌い上げは、なんだか重みが違う……

二階席の真ん中から、歌うみんなの顔を眺めていたけれど、きっと心の中には、それぞれのLIFEが浮かんでいたのだろうと思う。部活の帰り道に見た夕陽だの、大好きな人たちとの夜中のドライブだの、狭い自分の部屋とミニコンポだの、パーティー明けの気怠い朝だの……。

オペラシティの会場がこじんまりしていたことや、私の席が二階席で、会場全体を見渡すことができたのもあり、月並みな言葉だが「一体感」を強く感じることができた。私にもこの十余年で色々なことがあり、最近では過去のことなど「あれは単なる中二病でした」と済ませてしまうことが多かったけれど、この「巨大な、神聖なるカラオケボックス」体験は、思いのほか素敵な出来事だった。ああ、ここにいる人たちみんな、同志だな!という感じがしました。

好きなもの、強く影響を受けたものは語り合うのが難しい。分かってもらえないと自分を否定されたような気になるし、うまく語れないと(大抵は言葉が追いついてこない)、やっぱり自分が傷つく、からだろうか。けれど十三年ぶりの活動再開という大事件と、コンサートという、一回性の強い体験を共有しているせいなのか、最近知り合った「同志」の皆さんと、語り合うのはすごく楽しいなと思っている。

もう孤独じゃないですね、良くも悪くも。



それで、「あの頃の自分」との再会はどうだったのか?

コンサート中ずっと考えていた。「夜空ノムコウ」みたいなことを。あの頃の自分の理想通りに今があるのか?ということを。もちろんそんなことはない。

小沢くんを、オペラグラス越しに見て、正直「年とったな」と思った。すなわち私も年をとったのだけれど、「年を取るのは良いこと」というモノローグを聴けたこともあり、うん、まあ、それは悪くないなと思えた。

「いちごが染まる」も「時間軸を曲げて」も、今の小沢くんでないと作れない曲だと思う。それは、たとえば、老いて病気をしている母を持つ私の胸にもしみじみ響く。十年前の私は、母に病気を隠されていることにさえ気づいていなかった。

新曲として披露された「東京の街が奏でる」の歌詞で、「見つからない何かを探す」というフレーズが印象に残った。「小沢くん、まだ探すのか!」と思ったのだけれど、それはつまり、年をとり変わって行きながらも、あの頃の自分をなるべく、できるだけ裏切らないように生きていく。ということなのかなあ……とか、考えた。

こうも色々と考えがちなのは、長い時間をOliveや小沢健二の存在なしで過ごしてきたので、よけいに、人生やら生き方などというものは、あまり何かの存在に頼りすぎず、自分自身で作っていかなきゃいけない。という風に思っているせいかもしれない。


そういえば、オペラシティのある初台まで行く時、乗り換えを間違えずスムーズに到着できた。上京したての頃は、よく新宿駅で迷子になっていたのに。先日、誕生日を迎えて、長く地元で過ごした時間を、東京で過ごした時間が超えた。もうこの街は私の街だし、ここにあるのは確かに私のLIFEだと思う。




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?