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「なくても生きていける」仕事への誇り

30過ぎたら親が病気になったりして、とかく病院や施設のお世話になる機会が増えた。そこで出会う人たちの献身、仕事に対する真摯さには頭が下がる思いばかりだった。この人たちがいなかったら、うちの親は…というシーンも何度もあり、かけがえのない、この世に欠かせない仕事というのがこの世にはあるものだな、と何度も心の中で(あるいは言葉で)感謝した。
震災があった時、お店から真っ先に消えたのは水や食べ物で、雑誌や音楽CDなどは売れ残った。ドラマ「あまちゃん」にもそんな描写があったと思う。私はあの時、初めて、会社から「出社しなくていい」と言われた。たしか二週間くらい休みが続いたと思う。私の仕事は主に広告業なのだが、自分たちの仕事って、なくても「決定的には」誰も困らないんだな。必要不可欠なものではないんだ。……そう思った。

けれど、最近、「そんなことないな」と思いなおしている。病気とか天災とか、そういう「苦難」はまだ、それなりにこの世に存在している。それに対して、できる限り避けよう、抗おう、コントロールしようとするのが、人間の営みのすばらしいところだろう。しかし私の仕事は、それ自体を減らすことはできない。ほとんどそれ自体とは関係ないところにある。けれどもそういう辛いこと、大変なことがあった時、当事者と、それを取り巻く人が欲するのはなにか? 日常を取り戻すことだ。苦難はあまりにも非日常だから。いつもなにげなく享受していた、ちょっとした楽しみをいずれ、取り戻すこと。それは私の場合、花を飾ったり、服を買ったり、友達とおしゃべりしたり、料理をしたり、そういうごく平凡なことだ。
「苦難」を味わうと、この「平凡な日常」がとつぜん、輝き出す。私にとっては、水や食べ物とほぼ同じくらい、花を買うとか、素敵なお洋服を眺めるとか、友達とお茶でも飲みながらおしゃべりするとか…そういうことが大事な存在なんだ……と、最近、あらためて気付かされた。なんという平凡な女子だ。そして自分が、その「平凡な女子」の毎日に、なんらか花を添える仕事をしていることも、急に誇りに思えるようになった。
そう、「仕事ができる」こともまた、平凡だがとても有り難い日常なのだ。

なくても生きていけるものに、この世は満ち満ちている。けれど、街角の花屋さんや、オンラインショッピングで買えるような、ささやかな幸福で、むしろ命をつないでいる人がきっといるんだよね。
そんなふうに思いながら、きょうもEtsyやPintarestを眺め、よいため息をついているのであった。命にかかわらない仕事をしている皆さん、ご自分の仕事に、誇りを持ってくださいね。



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