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コセンキョー(跨線橋)。その独特の響きも魅力の一つでしょうか

「鉄橋」でなく、「陸橋」でもなく、「歩道橋」でもない。歩行者も自転車も車も通ることがありますが、ひっくるめて「跨線橋こせんきょう」と呼びます。一言でいうなら「鉄道を跨ぐ橋」です。レトロなものから、新たに建造されたものまで播州人3号が紹介します。

「開かずの踏切」という恐ろしい言葉が使われだしたのはいつごろからでしょうか。跨線橋には線路や踏切でアクセスが中断されるのを防ぐ狙いがあります。
瀬戸内に複数の線路が伸びる兵庫では珍しくありません。
「コセンキョー」という言葉が日常的に交わされています。

令和に完成した跨線橋です。

令和跨線橋22日開通 たつの
南北アクセス改善期待

令和跨線橋=たつの市揖保町(兵庫県龍野土木事務所提供)

 中国自動車道山崎インターチェンジと国道250号をつなぐ揖龍南北幹線道路の一部で、県が整備を進めていた「令和跨線橋」(たつの市揖保町)が22日午後3時に開通する。これにより山陽自動車道以南の同幹線道路はすべて完成し、南北アクセスの飛躍的な改善が見込まれる。
 新跨線橋は、同幹線道路を構成する県道網干たつの線上に位置し、JR山陽線をまたぐ。
 県道は国道2号以南の約4キロ区間で幅員が狭く、JRの線路と交差する踏切では対向車の通過を待たなければならない状況だった。そこで交通円滑化のため、県とたつの市、太子町が工区を分けて2005年度から順次、新たなバイパス整備に着手した。
 跨線橋は全長301メートルで2車線と片側歩道を備え、幅員は11メートル。跨線橋を含め、県が受け持った区間は633メートルで約35億円の事業費を投じた。計画では一日約1万2千台の交通量を見込む。
 橋名については、県が地元と協議した時期が昨年の改元と重なったことから元号をつけて命名した。揖龍南北幹線道路のうち、山陽自動車道以北については、県と関係2市が今後、事業化に向けて調整していくという。

(2020年3月19日朝刊より)

姿を消したものもあります。
神戸市にあるJR灘駅では、昭和初期に完成した跨線橋の解体前に渡り納めのイベントが開かれていました。

完成から80年余、消える「昭和」 
市民らがツアー企画「最後のお別れ惜しむ」

 昭和初期に完成したJR灘駅(神戸市灘区岩屋北町)の跨線橋が22日、駅舎の橋上化工事に伴い80年以上の歴史に幕を下ろす。〝引退〟を惜しみ市民グループが企画する渡り納めツアーが21日、同駅などであり、参加を呼び掛けている。
 地元の大学生や社会人有志でつくるグループ「ナダタマ」が主催。橋上化が決まった2004年以降、駅内朗読会、駅舎見学ツアー、駅弁の発売などを企画してきた。
 灘駅は1920(大正9)年開業。駅舎は3年後に建設された。跨線橋は、南北の駅舎をつなぐために27年に完成。通路の長さ39・9メートル、高さ7・68メートルで、骨組みにはレールを使い、木板が張られている。橋上化工事で駅舎は既に解体され、跨線橋のみが残るが、22日終電発車後、使用を終える。12月末~1月には解体されるという。
 渡り納めツアーは午後3時、灘駅北口に集合。1907(明治40)年に完成した貨物専用線の臨港線をまたいで造られた約300メートル東にある「高橋」(愛称・灘のタカバシ)を始め、JR神戸線をまたぐ灘橋、南に抜ける岩屋橋、ガード下のトンネルを歩く。古いトンネルの写真などを見ながら、線路をはさんで南北の通行ルートの確保に苦労してきた同駅周辺の歴史を学ぶ。最後に同駅に入り、跨線橋を渡る。

(2009年9月19日付朝刊より)

撤去後、駅が橋上化されました。

南北結ぶ歩道橋が完成
JR灘駅 遠回りを解消

 JR灘駅の駅舎橋上化工事に伴い整備されていた駅の南北を結ぶ歩道橋「灘駅ふれあい橋」が完成し、26日から一般利用できるようになった。地域住民らが早速、真っさらな階段を上り下りし、便利さを実感していた。
 この歩道橋は改札を通らずに南北を行き来できるルートとして、2004年度から整備開始。09年に開通したが、昭和初期に造られた木造跨線橋)の撤去や、東側階段の整備が未完了だった。
 この日から駅東側から歩道橋を利用する人が迂回うかいする必要がなくなり、駅員(27)は「朝から『便利になった』という声をお聞きしました」。買い物に向かっていた女性(57)は「今まで遠回りしてたから、楽になりました」と笑顔だった。

(2011年3月27日付朝刊より)

注目は、ここでの呼び方です。
以前と同じような構造なのに「跨線橋」ではなく「歩道橋」としています。

「跨線橋」には線路を跨ぐという形態以外に「郷愁を誘う」や「昭和な雰囲気を持つ」などの意味が込められているのかもしれません。

こちらは存亡が注目されている跨線橋です。
JR播但線の生野駅にあります。

跨線橋の撤去検討 JR、老朽化を理由に
朝来市長「存続求めていく」

 朝来市生野町口銀谷のJR播但線生野駅で、上下線のホームをまたぐ跨線橋について、老朽化のため、JR西日本が撤去する方向で検討していることが8日、分かった。同日に開かれた市議会定例会の一般質問で、藤岡勇市長は「観光客など駅の利用者は跨線橋を利用しており、なくなれば駅のイメージも悪くなる。JRには市としても存続を求めていく」と答弁した。
 跨線橋は1952年設置の木造建築で、線路のレールが一部構造材に使われている。当初、JR西は来年夏までに撤去する方向で検討していたが、生野町区長会など3者と市が11月に存続を求める要望書をJRに提出。計画は現在、保留された状態となっている。
 JR西日本福知山支社や市生野支所によると、生野駅の1日の乗降客は約400人で、その大半が高校生。跨線橋の利用者はわずかで、駅の南北にある踏切での迂回うかいには数分かかる。同支社は「それほど大きな迂回にはならないので、踏切を利用していただきたい」としている。
 一般質問に立った会派「清風の絆」代表の渕本稔市議は「窓口は西口にしかなく、切符を買うために踏切を渡って往復すると時間がかかるようになる」と問題視。「市も改修費については応分の負担をして維持していくべき」と求めた。

(2021年12月9日付朝刊より)

文化財的な視点から保存されたものもあります。

国登録 旧小久保跨線橋
明治期の美しいアーチ

 西日本の大動脈・国道2号のJR西明石駅付近を北西に少しそれると、住宅街に大きな公園がある。子どもたちの楽しそうな声を聞きながら園内の遊歩道を進む。メタセコイアの並木の先に、珍しい姿の橋が目に入った。
 1890年、当時の九州鉄道(現・JR九州鹿児島本線など)がドイツの会社に発注した鉄道橋で、技師のヘルマン・ルムシェッテルの指導の下で造られた。鉄骨を三角形に組み合わせた「トラス橋」と呼ばれる構造で、現地で組み立てができるようピンを使って結合しており、数十年間は使われたとされる。
 明石の地に移設されたのは、昭和初期の1927年。旧国鉄の明石操車場の設置に伴って林道が分断され、代替道路が造られた際、この鉄道橋の一部を転用。長さ約65メートルの跨線橋が建設された。61年には鷹取―西明石間の複々線化に伴って88メートルに延長され、単線でありながら、多くの人と車が往来。操車場を挟んだ南北の住民をつなぐ道として、重要な役割を果たしてきた。
 第二の役割を終えたのは、新たな跨線橋(西明石陸橋)が完成した94年。いったんは撤去されることになっていたが、長年にわたって市民に親しまれていたため、その一部が、同駅近くの上ケ池公園内に翌年移設された。橋のたもとには、部材をつないでいた2本のピンと、橋桁と橋脚の間の「支承」と呼ばれる部材も展示されている。
 かつて人や車が通った部分には現在、木材が敷かれており、「ギシギシ」と音を立てながら歩くと、どこか懐かしいような感覚になる。ドイツから九州、そして明石へ。完成から100年以上を経て公園の片隅にさりげなくたたずむ姿は、静かに余生を過ごしているようにもみえた。
 〈メモ〉
 国の登録は2013年。ヘルマン・ルムシェッテルは、九州鉄道の基礎を作った恩人としてたたえられ、JR博多駅ビル屋上にはレリーフが飾られている。
 〈アクセス〉
 JR西明石駅から北西へ徒歩約10分。県道神戸明石線「小久保北」交差点を北西へすぐ。

(2017年3月23日付朝刊より)

現役時代の写真です。

生活に根差した橋でもあったからでしょうか。
紙面で「跨線橋」を取り上げる機会が多いように感じます。

日本最古の跨線橋がかつて神戸市にありました。

(1986年9月18日付朝刊より)

工事の様子も大きく取り上げられていました。

(1987年2月13日夕刊より)

大正時代の記事をたまたま見つけました。
見出しに「跨線橋」(傍線部)が使われています。

(1917年8月10日付朝刊より)

記事中では「架線橋」とも表現されていますが、「跨線橋」の方がしっくりときます。流行小唄に神戸が「踏切の都」とうたわれていたと初めて知りました。

<播州人3号>
1997年入社。JR姫路駅の西に「大将軍橋」という跨線橋がありました。駅周辺の高架化事業に伴い姿を消しましたが、長らく道案内の際の目印になっていました。ここを超えると姫路市街に来たという雰囲気でした。JR山陽線、山陽新幹線、山陽電車が集まる場所で、跨線橋なのに渋滞することで有名でした。

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