推すという生き方

『推し、燃ゆ』を読んだ。文藝に発表されそれなりに話題になっていた頃から読みたいと思いつつずっとタイミングを逃していたのだけど、この度貸していただける機会がありやっと読むことができた。ここで言う貸していただける機会というのは、私がオタク活動等で大やらかしをしてもう無理や!!!!!こんなん推し燃ゆの主人公やんけ!!!!!(何となくのあらすじは知っていた)とりあえず推し燃ゆ読んで反省してぇ!!!!!と限界オタク大暴れになっている所に慈悲深いフォロワーさんが手を差し伸べてくださったことです。ありがとうございます。私は周りの人々によって生かされている。

とまぁ、こんな限界オタクな私が限界状態で読んだ感想を綴ろうかなと思います。大筋では共感し、所によっては刺さりすぎてしんどい所もあり、しかしこの子とは相容れないなと思う部分もありました。あらすじは省きますが具体的な内容には触れますのでネタバレを気にされる方はお気をつけくださいませ。





私が1番共感してしんどかったのは、主人公が居酒屋のバイトをするシーン、次に宿題を忘れて先生に報告しに行くなど学校生活のシーンだ。主人公の「病気」が色濃く現れている描写には自分でも思い当たる節が大いにあり、その時の焦りや冷や汗をかく心臓の寒々しさが嫌でも分かってしまう。高校生の頃、夢庵の上位互換みたいなファミレスでやっていたホールのバイトを思い出した。イレギュラー対応をしなくてはいけなくなったとき、注文を取るなどの通常業務もある中でどれを優先すればいいのか分からなくてパニックになる。"臨機応変"なんて動き方はまるでできない。受験を理由にやめてしまったあのバイトをまたできるとは到底思えないし、まして居酒屋なんて以ての外だ。苦しくてもそれを続けられる主人公は本当にすごいと思う。それだけ強く「背骨」に縋り、寄りかかることができるのはすごいと思う。

推しは自分の「背骨」だという考え方は、私もまさに同じだと最初は思ったが、よくよく見ていくと共感できない部分もあった。まず、私は主人公よりいくらか利己的である。「背骨」はあくまでも"私の"背骨であり、私が"背骨だけになる"ことは決してない(なりたいという思いもない)。グッズを全部集めることはしないし、全現場余すことなく通っては(通えては)いない。私は"私が"楽しくなるためにお笑いを見ていて、私が1番楽しいのは推しを見て笑っているときで、そんな気持ちにしてくれる魅力的な人達のことを私は応援したい。彼らの望むことを"叶える"なんておこがましいことは当然言えないけど、彼らが歩く道のゴミを拾って磨くくらいのことはしたい。そして、活躍する姿を余すことなくこの目で見たい。どんな思想のもとに推しという人があって、何を面白がっているのか、少しでも理解したい。「解釈」したい。推しを見聞きし、言動を噛み砕いて、解釈し、推しの見せてくれる世界の解像度を上げる。推しを通した世界は自分の目で見るそれよりも鮮やかで楽しくて、その中で推しは一際面白い存在だから。あー好きです。とても。ここらへんは主人公と同じかもしれない。ただ、私にとっての推しは"理解しきれない"からこそ面白い存在であり、その観測者として傾向をまとめることはできても、推しそのものを解釈しきることも自分の「肉」にするなんてことも不可能だ。というか、できるなら推してないと思う。そもそも、舞台に立つ人を表での言動だけ見て理解した気になるのはただの思い込みでしかない。芸人なんて、どこまでも理解不能だから面白いんですよ。


この作品を読んだオタクは考えずにはいられないだろう。「背骨」を失ったら自分はどうなってしまうのか、と。私は無になり堕落する主人公を見て、ここまでにはならないだろう気持ちと他人事じゃないなと思う気持ちが半々だった。芸人、特にコンビ(トリオ)は、アイドルよりもずっと簡単に、ある日突然いなくなってしまう。「気が合わなかったから」、「売れないから」、「気持ちが折れてしまったから」、炎上なんてしなくても様々な理由で急に解散する。「あの日が最後でした」、「芸人をやめます」なんてことも珍しくはないのだ。もちろん推しが解散する/引退する可能性なんて微塵も考えてないけど、最近は身近な人達が解散することがあまりにも多くてなかなか堪える。失って初めて気づくものがあるんだろうな。何も無くただ生きていた私の日々の生活を意味あるものにしてくれているのは間違いなく推しの存在だ。それがいなくなってしまったら?どんな理由だろうと素直に納得なんてできるはずもなく、みっともなく沈むと思う。私の推しコンビはその2人であって初めて「"完全な"推し」で、どちらかがかけていたらこんな夢中になることは無かっただろう。面白すぎるネタはその2人でこそバランスが取れているし、普段の会話までめちゃくちゃテンポ良く面白いのだってお互いのよく回る脳みそで正確に高速ラリーし合えるこの2人でしかありえない。完全な形で、賞レースで優勝するまで、もっともっと先に開けた世界で大活躍するまで、ずっと見ていたい。その願いが私の日々の活力で、それを失うとか考えただけでも無理すぎる。無理。自分のifとして主人公の生活を見るのはやめます。しんどすぎるので。


基本的に私は"オタク"と言うには自分勝手すぎる人間だ。生活の大部分が推しに向いていることは間違いないが、「全部あなたにあげるわ」なんて言えない。私の「全部」なんてたかが知れてるし。強いて言うなら「私がよりよく生きるためにはあなたが必要なの」かな。そういう意味では背骨より杖に近いかもしれない。支えを持ってしても、自分は自分で立っていなければいけないものだから。あるいは燃料かもしれない。動くのはあくまでも自分の身体だから。推しという背骨を失って崩れてしまうほど体重を預けても、推しは自分の人生に責任を持ってくれる訳じゃない。だから私は私のできなさに1人で苦しむ。自分のことさえままならない人間が「他人を推す」なんてしていいのか、と。しかし同時に、「他人を推す」という行動目標があるから"この程度"で済んでいるのかなとも思う。私の「推す」という行為は自分勝手で一方的で、私という一個人が推しの役に立っているかなんて分からない。でも、ファンAとして私が回すカウンターの1が推しの評価指標やモチベーションを1つ上げることができているなら、こんなに嬉しいことはない。「有象無象のファンの一部として」の応援は劇場レベルの若手芸人のオタクをする上ではほぼ不可能と言っても良い(もちろん人にもよるけど、確実な応援になるような手段を取ると個人が認知されるくらいには界隈が狭い)が、「絶対私が1番!」「私が推しくんを支えてる!」と言うほどでなく、しかし推しに「自分たちをいつも見に来てくれるファンがいる」事実を伝えられるくらいの存在ではありたい。



作品全体への感想としては、主人公・あかりもその推し・上野真幸もあまり共感のできるキャラクターではない、もっと言えば好きじゃないというのが正直なところだ。殴る殴らない以前に真幸の人間性は私にとってあまり魅力的に思えない。思わせぶりで、後は察してくれとでも言わんばかりに余白を残すかまってちゃん的言動はなんだか鼻につく。でも、ある一瞬の台詞や目配せだけで沼に落ちる感覚はオタクとしてめちゃくちゃ分かるし、落ちたが最後、人間性に難があっても好きだ〜〜〜となるのも(あかりは人間性も好きみたいだけど)心当たりがありまくるから、あかりに対しては「私は分かんないけどあんたの好きは尊重するわ」くらいの気持ち。特にこの作品において、真幸がどんな人かということは「あかりの推し」以上の意味を持たないと思う。また、あかりもあかりで、あらゆる場面で病気を言い訳にしているのはもはや「できない」じゃなくて「しない」では???と思ってしまって感情移入しきることができなかった。ある程度は同情するが、就職活動を1社でやめるとかは甘えすぎだろ。本文が私小説的なこともあって、私かわいそうでしょ!え〜ん!みたいな態度が透けて見えるのがなんかムカつく。ただ、私も似たようなことを無意識的にやってしまう節があるので、あかりを反面教師として今後気をつけようと思った。被害者ヅラも自語りしすぎもよくない…!



以上が『推し、燃ゆ』を読んで考えたことです。推しは自分の生活を直接世話してくれる訳ではなく、日々を営むのは結局自分です。しかしオタクという生き方は業であり、他人に理解されずとも推し続けてしまう習性をそう簡単に変えることはできません。どんな形であれ、あなたが自分の幸せな推し方を見つけ習得することが出来ますように。たとえ地面を這いつくばっても良い。推しという光明をその目に焼き付けることができるなら。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?