第3回 神戸・新開地「橘小学校の校門前から」
ノスタルジーの持つ力
かつて聞いた音楽を久しぶりに耳にしたときには、懐かしさとともに当時の場面が思い浮かぶときがある。
「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)のイントロと彼女の甘えたような声を聴くと、曲のメッセージよりも、学生時代にやるべきことが見つからず焦っていた気持ちや、なぜか新開地本通りのパチンコ台の前に座っていた姿が蘇ってくる。
老人施設で、子どもの頃に流行った曲を一緒に歌うと一気に盛り上がるという話を施設の責任者から聞いたことがある。
認知症治療の臨床現場でも「回想法」という⼼理療法があって、若い頃に聴いた⾳楽などで過去を回想し、⼼理的な安定や脳の活性化を図るのだそうだ。
世界的な人気を誇るK-POPグループ「BTS」のメンバーの一人、JIMIN(ジミン)は、日経新聞の文化欄で「音楽はいつ、どんな状況でも誰にでも共感を与えられ、その時々の自分を思い出させてくれるじゃないですか」と語っている。
若い人も変わらないのだ。 過去はすでに終わったものとして簡単には片付けられない。
もちろん回想することが力を持つのは、音楽だけでなく、書籍や写真、子どもの頃に親しんだ映画や漫画だという人もいるだろう。また昆⾍採集や人形遊びなど、⼦どもの頃に夢中になった遊びを再開することで元気になる人もいるかもしれない。
今年の2月に出版した『75歳からの生き方ノート』(小学館)の本を執筆するに際して、65歳以上の数多くの人に話を聞いてきた。その時に、お金や仕事のことではなく、自身の過去の思い出というか、ノスタルジーを語る人が少なくなかった。
むしろ過去の思い出や故郷への望郷の念に支えられていると思われる人もいた。
その中には、小学校や中学校時代の思い出を語り、学校が閉鎖や統合になったことを残念がる人も少なくない。なかには、ホテルや水族館、老人施設や公共施設を併設する複合ビルになったと語る人もいた。
通った小学校は統合
私が6年間通った神戸市立橘小学校は、生田区(現在の中央区)にある湊川神社の西隣に明治33年(1900)に橘尋常小学校として創立された。しかし、社会情勢や産業構造の変化により校区内の児童数が減少し、昭和63年(1988)に最後の卒業生を送り出した後、ハーバーランドにある現在の湊小学校に統合された。
跡地には神戸市の水道局中部庁舎と神戸市男女共同参画センターが建設されている。
下の写真は残されている橘小学校のレンガ塀と正門近くにある標識である。
神戸市のHPによると、神戸市の小学校の児童数は1981年度にピークを迎えており、2022年7月はピーク時に比べて4割以上減少している。
統合状況をみると、聞き覚えのある4つの小学校が、平成になって1つに統合された例が3つもある。神戸の中心部でいかに少子化が進んでいるかがわかる。
橘小学校の校門も校舎も運動場もすべて水道局などのビルになっているので思い出は浮かびにくい。
小学校3年生(1963年)の頃から校庭で毎日のように三角ベースボールに夢中になった。今の子どものように、ゲームなどの多様な遊びがなかったので、放課後は、校庭で野球かドッチボールをするくらいしか手立てがなかった。
6年生の時には、私も加入していた橘小学校の少年野球チームが生田区(現在の中央区)の大会で優勝して、長田区西代にあった市民球場で開かれた全市の大会にも出場した。原口神戸市長の姿もその時に見た。
校門前において野球部員全員でユニホーム姿で写真を撮った記憶はあるが、ビルの一角になってしまっては実感が湧いてこない。校歌を思い浮かべても「たがいに磨き 磨きあい」の歌詞しか浮かばない。小学生の低学年の時は、「歯を磨くんかいな」と連想したことを思い出すのみである。
ひよこも売れば、粘土屋も来る
ただ、校門のあった場所に立ってみると、神戸市医師会館の前になだらかに下る坂道と歩道部分が目に入る。ここでいろいろなものを売りに来ていたオジサンのことを思い出した。もちろん子どもたちの客目当てである。
ひよこを売ることもあれば、オタマジャクシすくいもあった。カタ屋や粘土屋と呼んでいた、素焼きの型と粘土と極彩色の粉色を売る商いもあった。オジサンたちは、いつのまにか現れて、しばらくするといなくなった。
私はひよこを買った記憶はないが、オタマジャクシすくいや、カタ屋には取り組んだ。
小学校4年生くらいの時だ。
オタマジャクシは、黒くて本当に小さかった。図鑑で見るカエルを想像しながら「これは大きくなって本当にカエルになるの?」と聞くと、オジサンは「そうだ」と答えた。
家に持ちかえって水槽で育てていると、1cm程度の小さいままで変態し、黒い極小のカエルに変化した。「話が違う」と驚いたままカエル見つめていた。
その後、どのように取り扱ったかは覚えていない。
カタ屋の記憶の方が鮮明だ。
オジサンが壁を背にして校庭前の坂道に座り込み、子どもたちに動物や乗り物などの粘土型を売る。小さいものから大型のものまでいろいろな種類があった。一番高価だったのが般若やお城の型である。
型に粘土を押し込んで引きはがすと出来上がる。子どもたちは、型だけでなく、粘土と表面に塗る金粉・銀粉や赤・青・黄色などの色のついた粉も購入する。
オジサンは「20分後に展覧会をする」などと宣言する。それに合わせて子どもたちは購入した型で作った粘土作品を持っていく。
オジサンはそれらを並べて、50点、30点、10点と点数を書いた小さいダンボール紙を作品の上において評価する。
展覧会が終われば彼は粘土を手でツブシして 取り上げてしまう。その点数を集めると、新たな型を買う時に安くなる仕組みだったような気がする。展覧会を繰り返して、何度も型や粘土や粉を売るのである。
私は、そのオジサンが子どもたちに威圧的に接していたのが嫌だった。そのため途中で辞めたが、友人のF君は、般若の型も購入して高い点数を目指してのめり込んでいた。
子どもたちの「認められたい」という欲求をうまく商売にしていたのである。
そのオジサンは予告もなく突然いなくなる。型や粘土をたくさん買っていた子どもたちは途方に暮れる。しかしまた1年もすると、校門の前に現れるのである。
「歯の抜けたおっちゃんが多かった」
これに比べると、同じ子ども相手の商売でも、福原の柳筋に来るオジサンは愛嬌があった。
金魚すくいは明確に覚えているが、季節によって違う商売もしていたと思う。柳筋沿いにあったマル井パンと道路を隔てた北側の角で商いをしていた。スタンドと呼ばれる小さな飲み屋が並んでいる場所だった。
いつも機嫌が良いオジサンで、馬が走るときの前足と後足の運び方について指を使って丁寧に説明してくれたことを覚えている。
10歳にもなれば、相手のオジサンの雰囲気を感じ取っていた。
余談だが、今から10年位前に、書籍のテーマを探すために女性編集者と女性ライターとの3人が大阪の喫茶店で打ち合わせをしたことがある。編集者は東京在住だったが、地元に帰省していた。
話の冒頭で、彼女が十三の出身だと話し出すと、女性ライターの実家は西成区か住之江区で喫茶店をやっていたという。
女性ライターの「むかしは歯の抜けたおっちゃんが多かった」という発言をきっかけに各人の地域での「おもろいオジサンの話」で盛り上がった。
先ほどの金魚すくいのオジサンもずっと歯が欠けていた。小さい頃にアンプルをよく飲みに来ていた煙突掃除のオジサンも、やはり前歯がなかった。
もちろん私は、前回紹介した詐欺師のオジサンやヒモのおっちゃんの話もしたはずだが、会話の内容は何も覚えていない。
他人の話を聴けないほど、過去の記憶に没頭していたのだろう。他の2人も同様だったのかもしれない。肝心の書籍のテーマについては何も進まなかったが、3人とも満足げな表情で別れたのである。
同級生と校区を歩く
橘小学校の校門の話に戻ると、コロナ禍の直前に、6年生の時に同じクラスだった同級生に「土曜日の夕方5時に橘小学校の校門前に集合」とだけ決めて連絡すると、きっちり6人が集まった。
50年ぶりでも何人かはSNSでつながっている。
校門や先述のレンガ塀のところでワイワイ話していると、近くに住んでいる同級生の女性Mさんが、買い物帰りに「どこかで聞いた声だと思ったらS君だった」と言って話に合流した。
小学校時代に聞いた声を思い出したのだろうか。同じ地域に住んでいる友人は、「40年もいるのに彼女と一度も出会ったことはなかった」とその偶然に驚いていた。
学校の前にあった駄菓子屋で、野球カードを集めたことや、「当てもん」と呼んでいたクジを引いた思い出を語り合うことを手始めに、校区を歩き始めた。
各人の家のあった場所にも行ってみた。氷屋のSクンちのスピッツに激しく吠えられたことも思い出す。「ここに私が住んでいたアパートがあった」と懐かしむ女性もいた。
阪神・淡路大震災もあって建物が変わっているので、記憶していた場所が分からないこともある。逆に家は建て替わっていても、表札の名前を見てここが同級生の家に違いないと確信する場合もある。「ピンポ~ン」しても、子どもやお孫さんが出てきそうだ。
また坂道の傾斜で銭湯があった場所を思い出すこともある。
校庭も広っぱも各自の家も当時よりもとても小さく見えるのはなぜだろう。橘小学校の校区については、次回に地図も示しながら書いてみたい。
校区を廻ってから皆で一緒に食事に行った。
それぞれの親や兄弟のことも互いに覚えていて、当時は、あけっぴろげで付きあっていたことにも驚いた。
先生の性格についてもおおむね見解は一致していた。
たとえば「あの女の先生は嫌味な感じだった」「前にいた小学校と比較ばかりして、橘小学校をアカンアカンと言っていた」などの発言が相次いだ。
私は同級生の給食費を家に取りに行かされた記憶がある。たしか彼女は新聞配達をしていて、お母さんはこたつに入って寝込んでいた。
学校を休むことも多くて、今でいうヤングケアラーだったのだろう。滞納した給食費を取りにいかせたその女の先生を私は今でも許してはいない。
「子どもの頃の自分」が重要な居場所
話し合いながら気がついたのは、当時はそれほど親しくなかった友人とも互いにすっと理解できること。これは不思議だった。
年齢とともにいろいろなことを学び、役割を身に着け、知恵も深まっているように思えるが、本当は何も変わっていないのかもしれない。
そのかさぶたみたいなものを剥いでいくと子どもの頃の素の顔が出てくるからだろうか。また小学校の教室や校庭、担任の先生など共有している場があったからでもあろう。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない)」というサン=テグジュペリの「星の王子様」のお話は、学歴や持っている財産の額や肩書などのカサブタにこだわっていてはいけないという意味かもしれない。
京都大学で日本人の往生感を研究しているカ―ル・ベッカー教授の講演を聞いたことがある。
功なり名を遂げた人に臨終の前に『自分の誇れるものは何か?』とインタビュ―すると、自分が挙げた業績のことを語る人はいないという。大半が「小学校の頃、掃除当番をきっちりやった」など小さい頃の思い出を語るらしい。
ある程度、年齢を経た人にとって、「子どもの頃の自分」が重要な居場所の一つとなるといっても良いのではないだろうか。
私自身もそういう子ども時代の感性を大切に持ち続けたい。それは、自分自身が本当に求めるものにつながっていると考えるからだ。
「もうここまで来れば、面白くないことはやらずに、昔の友人と腹から笑いながら語り合える場があるのが一番良い」という同級生の発言に私も同感なのである。
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