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第6回 神戸・新開地「新開地の芸人たち②」

なぜ、明石家さんまは、松之助師匠を選んだのか?

私と同じ神戸新開地界隈で育った笑福亭松之助師匠(以降、敬称略)の自伝や落語のDVD、出演した映画などを参照する中で、「なぜ明石家さんまは松之助を師匠に選んだのか?」という疑問にぶつかった。

お笑いタレント、テレビ司会者として他の追随を許さない立場を確立した明石家さんまは、必ずしも多くの弟子をとらず、当時は華やかな人気を得ていなかった松之助をなぜ師匠に選んだのだろうか?

当時は、落語家でも漫才師でも師匠に弟子入りしなければスタートを切れなかった。
明石家さんまと同期の島田紳助は、漫才師の島田洋之介・今喜多代に、小枝は、落語家の三代目桂小文枝(後の五代目桂文枝)に弟子入りしている。

1974年、明石家さんまになる前の杉本高文が、弟子入りのために京都花月を訪れた際、松之助から「なんでわしを選んだんや」と尋ねられて、「師匠は、センスありますんで」とさんまが答えた。
一見不遜とも思える返答だったが、高校3年生では、適切な言葉で答えるのは簡単ではなかっただろう。

『ビッグな気分―いくつもの夜を超えて (1980年)』 大ブレイクを巻き起こす直前の25歳のさんまが、それまでの経験や、テレビ、ラジオでは 語り切れなかった思いを率直に綴った最初の自叙伝

それから34年後の2008年11月16日、大阪・NGK(なんばグランド花月)で開催された「笑福亭松之助芸能生活60周年記念 よしもとの天然記念物保護の会」(*1)で二人が入門時のことを語り合っている。
当時、笑福亭松之助(83歳)、明石家さんま(53歳)である。

さんまは、「CM」を「コマーシャル」ではなくて、「センチメートル」と呼んだ松之助のネタや、仮面ライダーのことを「砂糖壺みたいな面をかぶって」という思いもよらない例えに惹かれたと師弟トークで話している。

たしかに、そういうギャグのセンスが「師匠にするならこの人だ」という直感を呼び起こした面もあるだろう。ただ私は、それだけが理由なのだろうか、別の要素も大きいのではないかと考えている。

『草や木のように生きられたら(2016年)』 90歳を超えた晩年に、「人生のこと」、「芸のこと」、「日々のこと」の3つに分けて、 自ら歩いてきた人生を振り返っている。自身の著書としては最後の作品。 弟子の最初の自叙伝と師匠の最後の自伝を比較しながら読む。 2冊ともさんまの弟子入りの場面やデビュー時のことについて細かく描かれているが、 記述に矛盾がなく、師弟の相性の良さが感じられる     

私は当時の梅田花月で、松之助の仮面ライダーのネタを聞いたことを覚えている。実は、私にはそれほど斬新なものとは感じられなかった。むしろ、「仮面ライダー」、「へんし~ん」と座布団の上で叫びながら、「今日の客に合わせなしゃーないな」と愛嬌のあるボヤキで観客の笑いを誘っていた姿が印象に残っている。

さんまは、自分の弟子入りのことについて、これ以上は語ってない。松之助も同様である。

新たな世界に導く人

私はこのような弟子入りについての話は、いまや芸人だけにかぎった話ではないと考えている。
かつては、良い学校を卒業して大きな企業に就職して定年まで勤めれば幸福になれるという昭和の幻想があった。それが一つの人生のモデルでもあった。

しかし高度成長はもはや望むべくもなく、デジタル環境などの変化も大きく、日本人の寿命も大きく延びた。一つのモデルだけで生きていける時代ではなくなった。

例えば、新卒で入社した会社にしても、満足して長く働くことができる可能性は急激に小さくなっている。
また30年も40年も自分に合わない仕事に携わるのは勿体ない。
逆に言えば、人生は一回戦だけでは終わらなくなっている。

自分を変えたい、次の新たなステップに行きたい人にとってヒントになるのは、目指す世界を体現してくれる人の存在なのである。

将来の可能性について不安を抱く人にとっては、その人を実際に見ること、すなわちその人が歩いた具体的な道筋、自分の可能性を広げるために参考にできる個人的な体験が望まれる。
自分が取り組んでいることが荒唐無稽ではないことを実感できるからだ。

そのようにして、新たな世界へと導いてくれる存在が必要なのである。
例えば、いくら名人の落語を何度もDVDで観て上手にマネができても、それだけではものにならない。

私は、この20年ほど、会社員のキャリアを中心に取材をしてきた。当初は、会社員から異なる職業に転身した人を対象にした。代表的な例を10人ほど示すと下記の通りである。

1.ITメーカーの部長→美容師
2.生命保険会社の社員→大学教授
3.損害保険会社の営業課長→農家経営
4.市役所の職員→大道芸人
5.通信会社の技術職→提灯職人
6.電気メーカーの管理職→高校の校長
7.信用金庫支店長→ユーモアコンサルタント
8.総合商社の営業マン→物書き
9.小学校教師→市会議員
10.鉄鋼会社の社員→蕎麦屋開業

多様な分野に転身した人に話をうかがい、最終的には取材した転身者は150人程度になった。
彼らにとって共通することは、各々「導く人の存在」の必要性である。

師匠やメンターは誰にとっても必要

このような次のステップに導く役割を持った人は、本人が「自分をどこに持っていけばよいのか」「他人に喜んでもらうためには何をすればよいのか」などと自身を変えたいときに登場することが多い。

取材経験から見れば、次のステップに導く人は2種類に分けられる。
それはあえて言えば「師匠」、もう一つを「メンター」と言っても良いかもしれない。

師匠とは、転身者がその人の一挙手一投足を学ぶことによって次のステップに近づくことができるお手本のような人である。
松之助師匠は文字通り師匠であるが、役職や立場には関係なく、次の世界に行くためにロールモデルになる人であれば師匠と呼んで差し支えない。
当然ながらその人は他の人にとって師匠になるかどうかは分からない。あくまで本人との個別の関係なのである。

一方で、メンターという役割を持つ人も現れる。アドバイスや助言、または人を紹介するなど転身のプロセスの中で何らかの形で支援してくれる人である。

明石家さんまの例でいえば、松之助は師匠、デビュー当初何かと面倒を見ていた桂三枝(現:6代目桂文枝)はメンターと言ってよいだろう。

師匠を呼び込む3つのポイント

転身のプロセスにおいて師匠と本人との関係が成立するには、主に3点のポイントがある。

① 本人に欠乏感・不足感があること(本人側)
転身を求める人にある種の欠乏感・不足感があって、それを埋めたいという欲求があることだ。これらが、自分が変わりたい理由と言ってもよいだろう。
この欠乏感・不足感が行動まで結びつく人は全体としては少数派である。

欠乏感を感じていても行動に結びつかない人が少なくない。また順調に進んでいる人には、変わりたいという欲求が小さいので、師匠を求める姿勢にまでは至らないことが多い。

当時の明石家さんまのように、学生から社会に出るといったキャリアの区切りは、師匠を求める必要性が大きくなる。

② 一途な姿勢と師匠との相性(主に師匠側)
師匠と本人が結びつくためには、師匠の側がどのようなスタンスになるかも大切だ。
本人のために何かを教えてあげよう、役に立ってみたいという気持ちになることがポイントなのである。

どうしても変わりたいという一途な気持ちと、自分を成長させたいという純な思いが、師匠の気持ちを動かす。
そこには、師匠と本人との相性も大きく関係する。松之助は、自著の中で「人が笑うことを自分の喜びにしたいと心の中から湧き上がってくるものを感じた人がこの世界に入るのに最も適している人です」(*2)と語っている。
必ずしも力量やセンスがあるから師弟関係が成立するとは言えないのである。

会社員の場合では、自分の専門的な知識やスキルを持つことが転身する際のポイントだと勘違いしている人が少なくない。
もちろん専門知識を高めることは重要であるが、それよりも周囲の人から「彼だったら協力しよう」という気持ちを呼び起こすことが大切なのである。

③「この人だ!」と見極める直感(本人側)
変わろうとする本人にとっては自分を導いてくれそうだという直感が大きなポイントになる。
意識している場合だけではなく無意識の中で師匠やメンターを探している人もいる。
また実際に転身の途上ではその人が師匠であることが分からないこともある。転身後の自分を明確に描き切ることはできないので、これはやむを得ない。

それでもこの人について行けば何とかなるかもしれないという第六感が大切なのである。

私も会社員から転身した人の話の聞き取り取材に没頭していた時には、彼らの立場を変えたプロセスの中に貴重なヒントがあることは漠然と感じていた。
しかし当時はそれが何かは分からなかった。うまく言葉にできなかったという方が正しいかもしれない。
実際に文章を書きだしてから、彼らが私にとって師匠やメンターの役割を担っていたことに後で気づいたのである。

明石家さんまが笑福亭松之助を選んだ理由―新開地のオジサン

当初の明石家さんまの師匠の選択に戻って考えてみる。
③の見極める直感という意味では、さんまは笑福亭松之助のギャグの内容よりも、漠然と松之助の生き方や芸に対する姿勢が自分にフィットしていると感じたからではないかと考えている。

私は松之助が、神戸・新開地界隈の同じ町内で育ったということを知る前から、何か彼に親近感を抱いていた。

それは「子どもの頃に近所にこんなオジサンがいた」という感覚だった。

松之助は、楠高等小学校を卒業して三菱電機神戸製作所の養成工として、潜水艦の設計課に配属になる。戦時色の強い時代である。
松之助は正規の職員と工員とを区別する取扱いに腹を立てて係長のところに怒鳴り込んだり、養成工の服装は「ゲートル着用と靴」という規則があったが、下駄ばきで問題ないと主張して守衛と揉めたりしていた。
工場内では目立つ存在になっていた。

また当時の反戦思想を持った医師に頼んで、「肺浸潤、3カ月の療養を要す」と嘘の診断書を書いてもらう。
それを根拠に会社を休職して、健康保険組合から日給の7割相当の療病手当を受給しながら、神戸新開地の映画館に映写フィルムを自転車で運ぶ仕事をしていたのである。
当時は、憲兵隊も一般人の監視をしたそうだが、松之助はなぜか大丈夫だと確信していたという。

形式的な規則に縛られるのは耐えられず、反骨精神というか、自分の気に入らぬことには抵抗するタイプのオジサンは私の周りに結構いた。
さすがに虚偽の診断書までいくと問題だが、要領の良さを持ち合わせて、納得がいかないことには相手が誰であろうと論理的には問題があっても自説を展開して相手をねじ伏せようとするのである。

オジサンたちは、近くで見ていると正義感と自分勝手が混在しているように思えた。そのため意外と愛嬌があって周りから慕われたりもするのである。

私は、50歳から会社の仕事と並行して著述業との二足のわらじを履いていたが、周囲の会社員は、問題のない活動でも「副業禁止に抵触するかどうか」を気にする人が多かった。
私は彼らの心情が不思議でならなかったが、これも小さい頃から新開地のオジサンのシャワーを浴びていたからかもしれない。

明石家さんまの話に戻ると、高校生では、まだ芸能の世界についても分からず、自分の今後の来し方も描けないだろうが、笑福亭松之助に対して、何かこの人の生き方や姿勢が自分の将来の手本になるかもしれないという直感が彼にはあったのではないか。

松之助は、当時の仕事としても、落語家の顔だけではなく、コメディーからミュージカルまで役者としても活動。吉本新喜劇の台本も手がけて、初代座長でもある。
そういうテレビでも通用するマルチプレーヤーの走りともいえる柔軟な姿勢が自身に合っていると、さんまは第六感を働かせたのではないか。

松之助が著書にて語る「芸人やから人と同じことやったらあかん。ただ自分の人生、何をやってもええんです」というメッセージを漠然と嗅ぎ取ったのではないか。
さんまが落語家だけでずっとやるつもりであれば違う選択があったのだろうと思うのである。

松之助本人は、自分が五代目笑福亭松鶴を師匠に選んだ時に、松鶴の落語に魅せられたことはもちろんであるが、「喜劇をやりたかったけど、作者に嫌われると役が付かん、漫才はじきに相方とケンカするやろうし」ということが落語家を選んだ一つの理由だと話している(*3 P36)。

明石家さんまがピンで大成している姿から見ると、この点も意識下で松之助の姿勢に共感していたのではないかと感じるのである。

「勝手弟子」のススメ

上方落語の定席「神戸新開地・喜楽館」では、2022年8月1日~7日に「水木しげる生誕100周年記念ウイーク」と銘打った興業が行われた。

水木しげるは紙芝居や貸本を描いていた頃に神戸新開地の目と鼻の先の水木通りに住んでいて、漫画の筋書きを考えるのに新開地の映画館に足を運んだそうだ(*4)。
ちなみに「水木」というペンネームも彼が水木荘というアパートを保有していたことから由来している。

このウイークが始まる8月1日の対談で、活動写真弁士の坂本頼光は、水木しげるの大ファンで、小学4年生の時に、調布市にある自宅で弟子入りをお願いした。
その時に水木に「漫画家になると、餓死しますよ!」と言われたというエピソードを語っていた。

8月1日の喜楽館。坂本頼光は水木しげるの大ファンである作家の久坂部羊と対談した


坂本頼光は自らのツイートで、「(水木)先生は亡くなられてからも、作品で、思い出で、御縁で、お仕事で、私を救ってくださいます。先生は私の師匠ではないですが、私は先生の弟子です」と述べている。

彼のように、実際に弟子入りをしなくても、自分が私淑して、導いてくれると直感する人を心の中の師匠とするという姿勢は大切ではないだろうか。

俳優の藤田まことは、その著書(*5)で「勝手弟子」になることを勧めている。

藤田は、面識のなかった新国劇の辰巳柳太郎を勝手に自身の師匠と決めた。辰巳柳太郎の説教臭くない年の取り方に憧れたからだそうだ。
アクションも拳銃もパトカーもない「はぐれ刑事」の役柄を作る際に参考になったと書いている。

坂本頼光や藤田まことが言うように、自分が憧れを抱く人を勝手に師匠に見立ててそこから学ぶこともできる。
現実に弟子入りすることは困難な場合が多いが、「勝手弟子」になれば新たな世界に踏み出しやすくなる。

私の例でいえば、「頑張っている中小・零細企業を応援したい」という自らの思いに従って、50代半ばで新聞社を退職して、月刊紙「 “日本一”明るい経済新聞」の、たった一人の記者兼編集長に転身した竹原信夫さん。

彼を取り上げた新聞記事を読んだ時に「自分の求めていることのヒントがこの記事にある」と感じて、竹原さんの「勝手弟子」になることを決めた。
彼が多くの中小・零細企業の経営者を取材しながら、そこで得たことを紙面のみならず、ラジオやテレビでも発信する姿が私の目指したい方向と重なったのである。

私は数多くの会社員の転身した事例を取材して、そこから会社員の新たな働き方について発信しようと考えていた。取材した一覧表を竹原さんに見てもらって、「これはモノになると思います」と言ってもらったことは忘れられない思い出である。

「勝手弟子」になる師匠は学校の先生や年上の人である必要はない。書籍やテレビで観た人を師匠とすることもできるだろう。
極端に言えば、すれ違いざまのその人の佇まいに学ぶことも可能である。

そして師匠と思えないと分かれば、違う人を探せばよいし、次のステップに到達すれば異なる新たな人の「勝手弟子」になって、また進めばよいのである。

明石家さんまのように自身の直感を働かせながら魅力ある先達の「勝手弟子」になり、自らの可能性を高めていく行動は、今後は一般人にもますます求められるのではないだろうか。
                                  
(*1)「楽悟家 笑福亭松之助」(DVD)2009年 ユニバーサル ミュージック
(*2)『草や木のように生きられたら』(P274)ヨシモトブックス、笑福亭松之助2016年)
(*3)『いつも青春ずっと青春―笑福亭松之助聞書』(燃焼社、林家染丸 2019年)
(*4)『水木サンの幸福論』(角川文庫、水木しげる 2007年)
(*5)『年をとるのも悪くない』(飛鳥新社、藤田まこと 1991年)

        



 




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