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第16回 神戸・新開地「喜楽館の漫談、R-1へエントリー」(下)

喜楽館での初舞台

1月5日(金)18時から、上方落語の定席である神戸・新開地の喜楽館を借り切っての催しが始まった。
演芸関係の出し物が続いて、プロのシンガーが登場。その後に、数人が素人のど自慢に挑戦して優勝者を決めるというプログラムだった。

幕が開いて、主催者のあいさつの後、社会人の落語、漫才に続いて、私の登場となった。舞台袖で待つ時も、慣れない漫談ということもあって少しプレッシャーを感じていた。

客席は初め重く感じたが、徐々に「耳を傾けてくれているなぁ」という感触があった。そうなると気分も落ち着いて普段と変わらずに話すことができた。途中からは、作成したパネルも示しながら続けた。 

最後のオチ(「ダボっ、しばいたろか!」)で笑いが起こったのは本当に嬉しい瞬間だった。
執筆では得られない感触だ。

タイムキーパの女性から持ち時間の8分ピタリで終わったとの連絡もいただいた。パソコン画面で録画して時間を計測しながら何度も練習した成果だ。
のど自慢の審査員を務めた男性からは、「全然あがっている印象はなかった」とのコメントをもらった。観客は出演者を含めて80人程度。漫談初体験の私にとっては充分な人数だった。

漫談で実際に使った原稿は最後にアップするが、終了後は駆けつけてくれた元同僚や観客が言葉をかけてくれた。
これらも今回のイベントを企画・運営いただいた方々のおかげで最高のお正月になった。

「私は帰ってきた!」と二次会で感じた

イベント終了後は、近くの居酒屋で二次会が行われて、舞台に出演した人、企画・運営に携わった人、および観客や各々の友人たちが参加した。
私の知人は誰もいなかったが、落ち着かないというよりも居心地の良さを感じていた。
漫談を無事に終えた安ど感もあったが、この喜楽館のある地域で子どもの頃を過ごしたという記憶が私に蘇ってきたからだ。

漫談にも取り上げたが、私は新開地、福原界隈にどっぷりつかって中学まで過ごしてきた。
ところが兵庫県立神戸高校に入学した時に激しいカルチャーショックに見舞われた。阪神間モダニズムとでも呼ぶべき洗練された文化、生活様式と、神戸新開地界隈の持つ猥雑さ、庶民性とは対極だったからだ。

地域にも「風土」というべきものがあることに気がついた。

ミナト神戸の海岸通5丁目という元町と新開地との結節点に近い場所で育った直木賞作家の陳舜臣(1924- 2015)はその著書の中で、
「新開地は見栄抜きの、庶民の遊び場である。あけっぴろげの気安さがあり、夏にはステテコ紳士が白昼徘徊する。この通りのファンである常連のことを、カイチ・マンと呼ぶ。三宮の虚栄をせせら笑うカイチ・マンは多い」(『神戸というまち』p174至誠堂新書/1965)
と述べている。

その地域色の違いは当然ながら県立高校の校風にも現れる。
たとえば、当時の神戸高校(神戸市灘区)は東灘区や灘区、中央区を中心とする校区で、同じ県立の兵庫高校(神戸市長田区)は兵庫区、長田区を中心としていた。

毎年春と秋に両校はスポーツの定期戦が実施されて、春は神戸市長田区の西代にあった市民球場で野球の試合があった。
応援席では、神戸高校の生徒が制服を着て品の良さを感じさせる言動だったのに対して、兵庫高校は私服になっていて、自由奔放でざっくばらんな雰囲気を醸し出していた。
(今回の原稿をアップした時に、兵庫高校出身の人が、「高校の定期戦の時に、あちらを『山手の星』、こちらを『下町の太陽』と呼んでいたことを思い出しました」とコメントをいただいた。私だけが感じていたわけではなかったことを確信)

私の自宅は兵庫区、通っていた楠中学校は生田区(現在の中央区)だったので、両校の校区の境界線上にいた。しかし馴染んでいるのは圧倒的に兵庫高校のカルチャーだったのである。

前置きが長くなったが、二次会での心地よさは、兵庫区、長田区あたりで育った人たちからもたらされたものである。
漫談では、私が通った小学校、中学校のことや新開地・福原のことも話題に挙げた。

それに反応するように、
「私は隣の小学校に通っていました」
「(湊川公園近くの)パークタウンでお母さんが働いていた」
「湊川商店街の歳末の抽選会で、現金のつかみどりをやってましたね(当時は、抽選に当たると、お札や硬貨のつかみ取りに挑戦することができた)」
などの地元ネタを私に語りかけてくれた。それらによって私の心の奥底に眠っていた「カイチ・マン」に久しぶりに出会ったのである。
誰も建前などは言わない。「オモロイ、いっちょうやったろか」という雰囲気に触れて、「私は戻ってきた!」と感じた。
この日は何年振りかの午前様だった。

R-1グランプリ1回戦で敗退!

喜楽館での漫談の5日後にR-1グランプリ1回戦にも初挑戦した。
この日に向けて12月30日、1月4日の両日に観客席から1回戦の様子を下見したうえで、直前の数日間パソコン画面にネタを語りながら何度もチェックして臨んだ。

当日の会場である大阪市北区の「カンテレ扇町スクエア なんでもアリーナ」の受付で、参加費2000円を支払った。

参加者はほぼ全員が若い人だった。2日間の下見で私は最高齢だろうと想定していたが、同じグループに81歳の男性がいたので驚いた。
「私たちは高齢者枠ですか?」と冗談で受付に聞いたりしていた。彼は今も商店主として働いているという。
二人の共通項は、駄目で元々、ダメモト」主義といったところだろうか。

R-1グランプリ、当日の出番表

すべての参加者が過ごす広い楽屋に入ると、誰もがあちこちでブツブツ言いながらネタの練習をしたり、本番の衣装に着替えたりしていた。
私語を交わすこともなく緊張した雰囲気が漂っていた。その時に、なぜか中島みゆきの「ファイト!」の歌詞(「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト!~」)が頭に浮かんだ。

出番が近づいてくると、舞台袖で5人が一つのグループになって、前の人の2分間のパフォーマンスが終わるのを待つ。
ひとつ前の若い女性のコントを眺めながら、今回の舞台は、私のキャラやネタでは場違いであり、アウェイ感も大きかった。5日前の喜楽館の演芸会では地元神戸の人たちばかりで、かつ神戸のネタだったので耳を傾けてくれたのだということに気づいた。

「定年退職者を探せ!」というネタだったが、笑いというよりも定年退職者の悲しさが漂う内容で会場の雰囲気とはアンマッチだった。
「とにかく面白いピン芸」という審査基準にも適合していなかった。

結果はあえなく敗退。経験と実力のなさはいかんともしがたいレベルだった。
それでも終わった後には心地よい解放感があって、2000円の参加費はとても安いと感じたのである。

幼年期と老年期は同工異曲

1月5日の喜楽館での漫談デビューおよび1月10日のR―1グランプリ1回戦へのエントリーでは、周囲の反応は驚きを含めて好意的だった。
「デビュ!! おめでとうございます」
「凄い仕上がりでした!素晴らしい! 最後は大笑いしました」
「いつまでも挑戦する気持ちがあって素晴らしい」
「次回のR-1予選は、応援に行きますよ」
など、ありがたいコメントもいただいた。

Facebookの「いいね」も今まででは一番多くついたかもしれない。もちろん私からは、「やってみただけで、レベルはアマもアマ、アマの第一歩です」と返信した。

敬愛する西条凡児ー浜村淳ー上岡龍太郎の各氏に魅了されてきた私からは、漫談と呼ぶのもおこがましいレベルであることは十分認識していた。それでも周囲の反応は嬉しかった。

私自身は子どもの頃から神戸松竹座の演芸や啖呵売たんかばいに憧れがあったのは間違いなく、それが喜楽館の漫談やR-1のチャレンジに結び付いている。単に奇をてらった訳ではない。

大人になると、子どもの頃の思い出を忘れ去ることが多い。それに抗って幼年期の世界を回顧することが老年期の生活の豊かさにつながるような気がしている。

同世代の人と付き合っている時や会社員時代は、小さい子どもは全く視野に入っていなかった。
ところが最近はかなり違ってきている。同年代の男性が「年が行くほど、小さいこどもがかわいく思えて仕方がない」と語っていたことを思い出す。全く同感なのである。

なぜだろうかと考えてみると、老人と小さい子どもは、見た目は異なるが、「アッチの世界」に近いという共通性がありそうだ。ただ向いている方向は、生の方か死の方かで違っている。

この同じグループだけれども、正反対のものを見ているという同工異曲どうこういきょくが重要だと感じている。私が生まれ育った地元のことを執筆したいと思ったのも、幼年期に大切な何かがありそうだという直感からだ。

またこの度、神戸新開地喜楽館からアンバサダーを任命された。大変光栄なことである。
今回の漫談挑戦のおかげかもしれない。私の役割は、喜楽館を広く皆さんにお知らせする宣伝マンだろう。
積極的に活動することが地元新開地との結びつきをより強くできることになればと願っている。

2023/1/5 喜楽館の漫談原稿(8分間)

新年おめでとうございます。

今日は本当に嬉しいのです。なぜかと言いますと、私はこの新開地近くの薬局の息子として育ちました。通った学校も、近くの橘小学校、楠中学です。この新開地の本通りは今よりもはるかに賑やかで、商売人、職人、アウトローの人たちが通り狭しと行き来していました。

また中学時代は友達と一緒に新開地の映画館を巡り、神戸松竹座で演芸を鑑賞したり、夕食後は、銭湯に集まって2時間でも3時間でもだべったり、本当に楽しい日々を過ごしていました。

 それが、灘区の高台にある神戸高校に通い出した「15歳の春」に大きなカルチャーショックを受けました。

東の中学校から来た同級生が、「クラシックを聞いている」とか、「バイオリンを習っている」というのです。「ナニ!バイオリン習てる? 俺ら、ダボっ、しばいたろか、しか言われへん」。 

・彼らはクラシックを聴いていますが、当時、新開地・福原界隈の流しのおじさんが歌っていたのは、城卓也「骨まで愛して」ですよ。大原麗子さんみたいに「すこし愛して 長く愛して」とちゃいますよ。「骨まで愛して」どんなけ欲どおしいのか。

・もっとびっくりしたのは、五月みどりさん。あの「かまきり夫人」のヒット曲「一週間に十日来い」。1週間に10回来いだったらわかりますよ。カレンダー見ながら、どうしたら1週間に10日が入るのか、小学生の私は、悩みに悩んだんです。

・また東の方の中学生は勉強も良くできる。当時、高校一年生の担任の女性教師は、「なんで、このクラスは成績が悪いのか!」とぼやいていましたが、横にいた友人は「楠中の生徒が多いから」といいました。クラスに7人もいたんです。

・勉強だけじゃありませんよ。東灘区あたりの友人は六甲山で捕ってきた昆虫で素晴らしい標本をつくる。それに比べて、この新開地には自然がありません。いるのは街のダニと夜の蝶だけ。あんなんに背中から針を指すことなんてできませんよ。

・私は悩んで、自分のカルチャーショックの原因は何処にあるのか、東灘区と兵庫区新開地・福原のどこに違いがあるかを考えてみました。

・ポイントは、「ダボっ」という言葉です。
当時の新開地では当たり前の言葉だったのですが、東灘区ではほとんど使われていない。

そこで神戸高校に通う学生を中学別に「ダボっ」を使うかどうか調査してみました。行政区画でいうと、どうもその境目は灘区と中央区の境目あたりにある。私はこれを「ダボライン」と呼んでいます。ただ、厳密にいうと、灘区の北にある長峰中学や上野中学は、「ダボっ」はあまり言わないが、南の原田中学では「ダボっ」「ダボっ」言うてるんです。

・こうして考えてくると、神戸は3つに分かれます。東灘、灘地区と、居留地によって開けた三宮・元町地区、この新開地を含む兵庫・長田連合の各地域です。

・歴史的にみると、神戸は明治の初めに、三宮・元町地区と、兵庫・長田連合が車の両輪で発展してきた。東灘や灘は、まだまだ後なのです。先ほどの神戸高校の前身の神戸一中も当時は生田川のほとりにあったのです。

・また、三宮・元町地区は、明治初期に諸外国から「開港せぇ、開港せぇ」と言われて仕方なしにできた街なんです。神戸市民が自立して自分たちで街をつくったのは、何を隠そうこの新開地界隈を含む兵庫地区なのです。湊川も付け替えてこの新開地本通りもできているのです。

・その証拠に、人材一つとっても綺羅星のようにひしめいています。この新開地の南には、ダイエーの創業者である中内功、日本画家の巨匠東山魁夷、八つ墓村を書いたミステリー作家の横溝正史、映画評論家の淀川長治。芸人でも、笑福亭松之助師匠の実家は、私の家のすぐ近くでした。あの明石家さんまさんの師匠ですよ。元大阪府知事の横山ノックさんは楠中の先輩、桂あやめさんは後輩です。

・本当の神戸の中心地は、この新開地界隈ですよ。皆さん自信を持ちましょう。

新年は、この「神戸の中心から愛を叫びましょう」。
どういうキャッチフレーズがいいですか? 
「エエトコ、エエトコ聚楽館」にちなんで「エエトコ、エエトコ喜楽館」はどうですか?

私も一つ思いつきました。最後に披露して終わります。
(一呼吸おいて)「ダボっ、しばいたろか!」
ありがとうございました。楠木新でした。

                      



 


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