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THE HIGH BEATSの歴史(3)

変動期に入るも立ち直る

ようやく各地でベンチャーズの名前が口にされるようになり、そのスタイルをまねたバンドが活動を始めていました。私たちもベンチャーズのスタイルを基本としていましたが、ヴォーカルがいたので多くのポピュラーソングを取り入れることができました。ヴォーカルも女の子が必要だと新聞広告を出したところ、当時高校生だった女の子が応募してきました。出会い系やだましプロダクションなどの犯罪がなかったいい時代でした。すぐに採用しました。その結果ポールとポーラや、コニー・フランシスの曲も増えました。唯一未成年で学外のメンバーでしたが、昼間の活動に限って参加してもらっていました。

又、気に入った曲は自分たちなりにアレンジしていたので、他のベンチャーズスタイルのバンドがやっていない曲も持っていました。ブルースなどスローテンポのチークダンス向きの曲も得意としていたので、本格的なダンスホールでのアルバイトもありました。ポンとその同級生と私は、西荻窪で2階の三部屋続きを借りて共同生活に入り、駅近くのコメット楽器店でスタジオを借りることもできました。

演奏活動は広範囲にわたり、子供たちの施設を訪問したこともありました。たまたま故田宮二郎さんが援助していた、つくし会という施設訪問グループから声がかかり、子供たちの前で演奏したり、一緒に歌を歌ったりしたのは心に残っています。

「つくし会」での演奏

そのあとメンバーも少し変わり、ベースは何をやっても器用にこなす島根県出身のテッチャン、マネージャーは気仙沼出身の長身でトボケた味のあるホンダサンになっていました。

64年の夏休みには全員で神戸へ帰って、三宮のダンスホールと期間契約をしました。帰るといっても島根と気仙沼出身の二人は、ポンや私の家に分宿です。当時のダンスホールには、コンボと呼ばれる7~10人ぐらいの管楽器中心のバンドが入っているのが普通でした。そんな既成のバンドの合間にやらせてもらうことになったのです。経営者は「まあ、やってみたら?」と言う程度であまり乗り気でもなかったようですが、結構若者たちを集めることができました。ゴーゴーやサーフィンを踊れる店ができた、と口コミで広がったようです。

神戸では他に「摩耶観光ホテル」(今は廃墟になっています)のホールでのダンスパーティー、それになにかの手違いで入ったものの、間違いだったとわかって一曲だけで帰った「藤田ガーデン」なども、思い出の一部です。

その当時一緒にステージに立たせてもらって覚えている有名人では、ビンボー・ダナオ、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズです。ビンボーさんは楽屋でなぜか「ワタシノパンツ、ワタシノパンツ」と叫んでブリーフ一枚で走り回っていました。アロハ・ハワイアンズは引き込まれるようなサウンドで、私もハワイアンに転向しようかと思ったほどです。

その後また大きな転機が訪れました。ポンの同級生であるドラム担当が、大学を中退して神戸へ帰ってしまったのです。どうしようもなく、集まってはため息をついていました。そのときベース担当のテッチャンが、スティックで座布団をたたいていましたが、「オレ、いけるんじゃない?」と言い出しました。座布団はほこりを舞い上げつつ正確にリズムを刻んでいました。「うん、ドラムをたたいてみんとわからんけど、いけそうやで」実際彼はやったのです。何年も前からたたいていたように、軽々とドラムをたたくことができたのです。

こうなればあと不足しているのはベースだけですが、これは比較的楽に見つかりました。下級生のタカハシクンがうわさを聞きつけて、ボクもよせてくださいと、自分からギター抱えてやってきたのです。飛んで火に入る夏の……、いやいや大歓迎でした。彼は親指の爪を伸ばして、それをピックの代わりに弦をはじいていました。すごいテクニックを見せてくれました。「君はベースが向いているよ」と、無理やりやらせたのです。

唯一の学外女性メンバーも駒澤大学に合格して、高校と同時にハイ・ビーツも卒業していきました。そしてここに最もバランスの取れた最終のメンバーがそろいました。

ポン(リードギター)
カマサン(サイドギター)
テッチャン(ドラム)
タカハシクン(ベース)
ヒゾー(ヴォーカル)
ホンダサン(マネージャー兼MC)

(4)へ続く