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善きサマリア人のたとえにみる、よりよい共同体社会へのヒント

聖書に、隣人愛とは何かを説く「善きサマリア人のたとえ」という一節があります。

"あるユダヤ人がエルサレムから旅をする途中、強盗が彼を襲い、服を剥ぎ取り傷を負わせ、半殺しにしたまま逃げ去った。

そのとき、偶然、あるユダヤ人の位の高い祭司が道を通りがかったが、関わり合いを避けて道の反対側を通った。

同様に、レビ人というユダヤ人の祭司の下で働く者もこの道を通ったが、同じくけが人を避けて道の反対側を通った。

三番目に通りがかったのはサマリア人だった。サマリア人はユダヤ人と仲の良くない民族で知られていたが、このサマリア人はけが人を見るや傷口の治療をして、自分のろばで宿屋まで運んで介抱した。そして翌日になると、宿屋の主人にけが人の世話をお願いし、費用も払って出発した。"

新約聖書 ルカによる福音書 10章25節-37節

この聖書のたとえ話は欧米の倫理価値観の根幹に非常に関わっている話で、現代でも「善きサマリア人とは何か」という様々な解釈がされています。

私はこの話を「他者への適度な関心と許容が世の中を共同体として前進させ、よりよい社会につながっていく」というように解釈しています。

私はキリスト教徒ではありませんが、よりよい共同体社会を形成する一員でありたいと思っているので、他者への適度な関心と許容については日々トライアンドエラーで研究しています。

以前、イタリアのローマからミラノへ飛行機で移動したときのこと。

夕方のミラノ行きの便に乗るため、ローマのフィウミチーノ空港の待合室のベンチに腰掛けていました。

この日は少し汗ばむくらいの快晴。けれど、空港内は空調が効いていて少し肌寒いくらいでした。

こんなこともあろうかと、ホッカイロや防寒の準備はしてありました。特に海外の空港のベンチはひんやり冷たいことも多いので、数時間待機しているとすっかり身体が冷えてしまいがち。このときのために用意しておいたシリポッカ(残念ながら今は販売終了)とホッカイロ、大判のストール、そして革のジャケットと速乾性のバスタオルをリュックから取り出しました。

防寒用具をすっかり整えてふと目を前に見やると、対面で座っていたイタリア人のマダムが、薄着の姿で震えていました。

年の頃は、自分の母親くらいでしょうか。小太りの体を寒そうに手でさすっていました。とっさにシリポッカと貼るホッカイロ、そして大判のストールを彼女に差し出しました。

確か英語で「ちょっと寒いですよねココ。よかったら使ってください」って言ったと思います。

カーディガンの裏に腰や背中があたたまるような位置に貼るホッカイロを貼ってあげて、シリポッカの中に手をつっこませてあげると、とても恐縮しながらもほっとしたような表情をみせて、彼女はイタリア語でグラツィエを連呼して感謝してくれました。

「いえいえ、どうぞ使ってください。あなたが私の母親だったら、同じことしますから。」

英語とイタリア語の会話なんで、通じているかわかりませんが、そんな会話をして数十分。羽織っていた革ジャンのおかげか、私は寒さを感じずにすみました。

自分のベンチに戻りmacをひろげて仕事をしているうちに彼女の乗る便の搭乗ゲートが開き、シリポッカとストールを私に返しながら私の手を握りしめて嬉しそうに何かを言った後、彼女は去って行きました。

そんなことがあっただなんてすっかり忘れていた矢先。
「日本人は他者に対して本当に冷たい。海外では困った人をすぐ助けてくれるのに、日本は生きづらい」と言っているツイートに出くわして、はたと考え込んでしまいました。

果たして日本人は本当に冷たいのだろうか、と。


それで、空港でのことを思い出したんです。

わたしがローマのフィウミチーノ空港で彼女にシリポッカを差し出したとき。

彼女の周りに座っていたイタリア人たちは全員、寒がっている彼女に無関心でした。別に彼女もそれを咎めることもなく、ただ黙って震えているだけでした・・。

「海外では困った人をすぐ助けてくれる」わけではなかったのです。むしろ海外の人の方が困っている人に無関心であることも多いのです。

結局ね、どこにいようと何人だろうと同じです。
要は、人の痛みをどれだけ我が事のように感じられるか。自分の親や子供だったらさっと差し出せるサポートをどこまで他人に差し伸べることができるか。人の心の心持ち次第です。

もちろん、過剰な配慮や他者への関心は必要ないと考えます。押し付けられた親切は時に負担やプレッシャーを与えます。
ただ、他者への少しの関心と、少しの寛大な心を持つこと。これが「善きサマリア人」が示す、より良い共同体社会なのかなと思います。

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