藤原氏四家の盛衰


#藤原氏北家ほか #藤原道長 #今日の五摂家
 

 先の投稿では「藤原氏栄華栄耀までの裏面を辿る」と題して、藤原氏隆盛に至る歴史を覗き見してみましたが、今回はそれに続いて、藤原氏四家の盛衰に触れてみたいと思います。
 ご存知のとおり藤原家には四つの流れがあります。北家・南家・式家・京家です。この四家は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の子たちがそれぞれ興した家系で、元をたどれば同じ一族ですが、時代によっては家同士が熾烈な争いを繰り広げることもありました。
この四家の祖は平安時代の前、奈良時代の人々ですが、平安時代の勢力図を知る上でも大事な内容なので、まず四家の興りから紹介しましょう。

  藤原氏四家の興り(祖は中臣鎌足・のち藤原鎌足)
 藤原氏の祖は乙巳の変(いっしのへん 大化の改新)で有名な中臣鎌足です。死の前日、中大兄皇子(天智天皇)から「藤原」姓を賜りました。ですから、中臣鎌足は一生の大半を「中臣」姓で過ごした訳です。朝廷で長きにわたって絶大な権力を持ち続けた藤原氏四家の祖は、この藤原鎌足です。
藤原氏は、その後、次男・藤原不比等の遠慮深謀、娘たちを天皇の后の座に据えることなどで自身の権力を盤石なものにし、藤原氏隆盛の基礎を固めました。
 ところで、先にご紹介しましたように、藤原鎌足の次男とされる不比等は、戸籍上は鎌足の次男とされていますが、真実は天智天皇(中大兄皇子)の子というということになりましょうか。

  藤原南家(祖は藤原武智麻呂)
 藤原南家の祖は武智麻呂。武智麻呂は不比等の長男で、嫡流であったため優遇され最終的に正一位・左大臣にまでなりましたが、南家の勢いはそう長続きはしておりません。
 南家衰退の原因なかで一番目立つのが仲麻呂の乱です。仲麻呂が道鏡と対立した事件で軍事力によって道鏡を排除しようと目論みましたが、官軍に倒され敗退、衰退していきました。
衰退したと言っても家が絶えたわけではなく、その後も南家の流れは続いており、有名な人としては平安末期に登場する信西入道があります。信西は南家貞嗣流の出で、父は藤原実兼。信西の出家前の名は藤原(高階)通憲(ふじわら/たかしなのみちのり)でした。南家の巨勢麻呂(こせまろ)の子孫が学者の家として続いており、その流れにあったのが信西です。平清盛とともに勢力を誇った人物で、保元の乱や平治の乱で有名です。平治の乱では自害し、息子たちも配流されました。学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られたのですが、『今鏡』ではその才能を絶賛する一方で、陰陽道の家の出でもないのに天文に通じたがために却って災いを受けたと評しているそうです。

  藤原式家(祖は藤原宇合)
 式家の祖は不比等の三男・宇合(うまかい)です。宇合は参議・正三位まで昇りますが、疫病にかかって亡くなりました。時に44歳でしたが、四兄弟中もっとも長生きでした。
 前述のとおり、不比等嫡流の南家は数代で勢いを失いましたが、次に力を持ったのはこの式家です。宇合の子である広嗣・良継・百川(ももかわ)らが有名です。彼らは孝謙・称徳天皇(女性天皇で未婚だったため、後嗣を誰にするかで議論になりました。我が国では再祚した天皇はただ二人、皇極・斉明天皇に次いで二人目)の次に自分たちの息のかかった光仁天皇を擁立することに成功し、以後権力の中枢にありました。
宇合の三男・清成の子・種継は桓武天皇の側近で、種継は桓武天皇の寵臣として左大臣にまで出世して、長岡京の造営の一切を任されていました。長岡の地は種継の領地でした。その造営中、暗殺されましたが、その背景には桓武天皇と不仲の同母弟・早良親王との確執などがあったようです。先に触れたところです。
 式家の勢いもそう長くは続きませんでした。種継の子の薬子は平城天皇の尚侍(ないしのかみ/しょうじ)となり寵愛を受けて兄の仲成とともに権力を持ち、宮女でありながら政治に介入し兄ともども権力を縦にしました。平城天皇が早々に譲位して上皇になると、兄妹は自分たちが専横し続けるため上皇の復位を望んで平城京への遷都を画策しました。しかし、嵯峨天皇が仲成を捕らえ薬子の官位を剥奪。薬子は服毒自殺し、仲成も死に追いやられました。
 このとき嵯峨天皇の側近として活躍していたのが北家の冬嗣で、この変を切掛けに式家は没落していき、反対に名をあげた冬嗣の北家は一気に隆盛することになりました。
 
  藤原北家(祖は藤原房前)
 北家の祖となったのは、不比等の次男の房前(ふささき)です。この房前は能力ある人で、嫡流ではないにも関わらず出世したのですが、房前以後の北家はあまり奮いませんでした。
 北家が力を持ち始めるのは平安時代に入ってからで、藤原冬嗣の代から台頭し始めます。その端緒は、前述しました薬子の変で、冬嗣は嵯峨天皇の信頼を得て側近として力をつけました。それ以前は、式家の藤原仲成と平城上皇の寵愛を受けた妹の薬子の二人が権力を握っていましたが、平城天皇が薬子の変で敗れると形勢が逆転。北家が一気に隆盛することになったのです。
『大鏡』で藤原氏の歴史が冬嗣の代から語られ始めるように、北家の栄華はここから始まったと言えるかと思います。その後、歴史上に名を残す「藤原」といったら北家。冬嗣の子の良房や、中期に登場する道長らも全員北家の人々です。
 藤原氏は現代に至るまで途切れることなく続いており、旧華族の五摂家である近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家、の5つの家も藤原北家の流れを汲んでいます。これらは鎌倉時代以降に分かれた家ですが、北家はいくつもの家に分かれながらも脈々と続いており、今もって名門として健在です。
 
  藤原京家(祖は藤原麻呂)
 京家の祖は不比等の四男である麻呂。南家・北家・式家の三家と比べ式家はもっとも知名度が低く目立った活躍がない家です。麻呂が四兄弟の末弟で、かつ兄たちに比べて子息にあまり恵まれなかったこともその理由と思われます。
 この麻呂、実は両親が異母兄妹同士だったと言われています。母とされる五百重娘(いおえのいらつめ)は藤原鎌足の娘で、もともとは天武天皇の夫人のひとり。天武天皇没後に兄・不比等の妻となり、麻呂を儲けたのです。権力をあまり欲さなかったのも、この出自のためかもしれません。麻呂自身、疫病で早死にし、子女らも早世したために一族はまったく奮いませんでした。
 政治的に奮わなかったとはいえ、一族の中には文化面で才能に秀でて有名になった人物として、歌人の藤原興風(ふじわらのおきかぜ)があります。中古三十六歌仙のひとりで、「寛平后宮歌合」や「亭子院歌合」など、醍醐朝の歌合によく参加していた人物です。『古今和歌集』以下の勅撰集に何首も収録されており、醍醐朝を代表する歌人のひとりです。琵琶に秀でた藤原貞敏や、舞楽や和歌で知られる藤原忠房も京家の流れの人たちです。


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